神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

祈りの中で91 〜ムスレムへの返信 スーラ

祈りの中で~ムスレムへの返信

 「慈愛の神よ、あなたは唯一です。だれがあなたに代わることができましょう。
    神は、時を超えて全地に遍在し、すべてを知り給う。
    あなたの思いを誰が代弁できましょう。
    天使や預言者をしても、語りつくすことはできません。
    あなたが、時にかない信仰者の心に示してください。あなたの心を、いにしえの信仰者のように、アブラハムモーセにしたように。
    神よ、正しい道に導きたまえ、あなたがいにしえに恵みを下された人々のように、あなたの怒りを受けた迷える人々のようにではなく。」    

次章の答えは、 الم و امل

الم痛みとは、キリストであり、彼の十字架の痛みこそ、われらのامل希望なのです。

 

 ※イスラム教のクルアーンへの回答のスーラです。

 

 

祈りの中で90  ~感謝しつつ、主の門へ

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本日の礼拝では、賛美の中で閉ざされた黄金門に十字架状の隙間ができ、そこから礼拝者が大庭へ入る幻が見えた。そのあと、奇しくも導かれた者が詩篇第100篇を口ずさみ預言した。賛美の歌詞も普通で、何の共有もない所で、同じものを見ているようだ。臨在がそうさせるのだろう。

 

「感謝しつつ、の城門に入り、賛美しつつの大庭へ入れ.に感謝し、の御名をほめたたえよ。

まことにエホバは、善である.の慈愛は永遠であり、の信実はすべての世代に及ぶ。」詩篇100:4-5(回復訳)

感謝でありました。 

「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。」詩篇24:7(口語訳)

 

💚エデンの園の木 〜蛇は偶像へ誘導する

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 ※十字架は偶像ではなく、いのちの木。イエスは、わたしを食べろと言っている。

エデンの園で蛇は、いのちの木を示さずに神が禁じた善悪の知識の木を指して、その実を食べるようにエバにささやき、騙した。それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた。見えるものに心奪われたのです。善悪の知識の木とは、善だけに生きていたアダムとエバにとって、真の神に背き、悪を行うことを知る木だったのです。

二つのうち、間違った方へと巧みに言葉がけして誘うのが、サタンのやり方でした。

現代も神が十戒で禁じた偶像崇拝について、いろいろと理由をつけて、騙そうとしている巧みな詐欺師=古い蛇がいます。イエスが示したいのちの木よりも、食べるに好ましいと言って、違う物に目を向けようとします。

園の中心に在ったいのちの木は、十字架に似ています。いのちの木の実は、口に甘くはなく、食べにくいものです。十字架は、偶像ではなくこの三次元の世を架けるためのものです。天国に通じる門です。

「しかし、わたしには、わたしたちのイエス・キリストの十字架以外に、誇るようなことが断じてあってはなりません.そのを通して、この世はわたしに対して十字架につけられ、わたしもこの世に対して十字架につけられてしまったのです。」(ガラテヤ6:14)回復訳

サタンは、今も中心(まと)からはずれた悪の知識の木=神と違う方向への執着=偶像を指して、だまそうとしているのです。

神と人との関係は、恋愛関係に似ています。神は、他のもの=神に代わる像=偶像 を拝む者をこころよく思いません。

「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。」(出エジプト記‬ ‭20:3-4)口語訳

以上は、モーセの時代より、示されている戒めです。

日本には、汎神論=一切のものは神の顕現であるとしながらも、だから複数の宗教や偶像崇拝を容認するという宗教があります。また、過去に真理を求めた宗教家には、ある程度いのちの木に近づく者もいたはずです。しかし、時代を経ていつしか戒めと異なることを教える宗教に変化しています。現代では、全く異なる複数の宗教や俗な教えや神仏を一緒くたに同一視する宗教も多くあります。しかし、それぞれの教えが違うことを言っているのに、よくもそんな教えを一緒だと見なせます。まるで吟味せずに闇鍋を食べているようなものです。その鍋にはワニやサソリや蛇が入っているかもしれません。仏教にも異質な考えが混入した証拠が残っています。初期仏教の段階からバラモン教の神が多数紛れ込んでいます。例えば、四国の金毘羅さんの正体はガンジス河のワニです。そのほかにも弁財天、帝釈天、水天宮などの「天」のつく仏の正体はすべてバラモン教の神です。これにはそれなりの理由があります。新興の仏教教団がバラモン教などの既存の教団からいじめられ、妥協の結果、このような異教が拝むものも認めてしまったのです。動物や人に作られた偶像を崇拝するような宗教は、真の神の御心にはかないません。動物や木や土石の像を拝むような下等な宗教では、救われません。そんなものに宿るのは、悪霊だけです。

ローマ時代の十字架は、忌むべき磔の刑罰です。しかし、われらを贖うためにご自身を捧げられた主イエスを幻視するのです。十字架は、門です。通過する入り口であり、自分自身を架けるべき場所でもあります。イスラムの人たちや多くのカトリックをはじめとするキリスト教徒も誤解しています。罪の赦しのための燔祭のいけにえが十字架です。また、主イエスは、信仰の創始者であり、完成者であり、われわれの目標であります。

「わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるエスを、ひたすら見つめていなさい.はご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そしての御座の右に座しておられるのです。」ヘブル12:2(回復訳)

信仰の創始者、完成者、主イエスを通して、その先におられる父に祈ります。主イエスも父なる神のみに向かって祈っています。ただ、十字架という次元の裂け目に御子イエスと天の父が垣間見えるのです。主イエスは、門です。

わたしは門である.だれでもわたしを通って入る者は救われ、また入ったり出たりして、牧場を見いだす。」(ヨハネ10:9)回復訳

また、偶像崇拝とは、神よりもこの世にある物質を愛すことを指します。お金や土地や財産・家屋などを愛することも同じです。三次元のものを主よりも愛することが偶像崇拝です。われわれの心は、聖霊に満たされ天国の喜びを垣間見たときに、全財産をはたいて宝の隠された畑を買う者、全財産をはたいて高価な真珠を買う商人のようになるのです。 

天に宝を見出せば、天に心を向けることができます。天に国籍を移せるのです。

「天の王国は、畑に隠されている宝のようなものである.人がそれを見つけると、隠しておき、喜んで行って、持っているものをすべて売り払い、その畑を買う。また、天の王国は、良い真珠を捜している商人のようなものである.非常に高価な一つの真珠を見つけると、彼は行って、持っているものをすべて売り払い、それを買った。(マタイ13:44-46)回復訳

この宝のために、自分の命さえも惜しまない者たちが使徒行伝時代には多くあったのです。 この宝とは、無償の愛につながります。そこに神を愛し、隣人を愛せよとの二つの戒めがCROSSしているのが十字架なのです。