神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

祈りの中で98 ~聖霊の火を

今日は、久しぶりに東京へ行きました。早めに行き、東京駅のガード下のイエスにも会い、以前は死にそうだった彼の元気な姿に安心しました。

エクレシアに寄せていただき、たくさんの証詞をお聞きしました。各地から聖霊に燃える魂が集まり、楽しいエクレシアでした。真心でキリストのために命を捧げる群れ。それが、この群れの特徴です。キリスト特攻隊です。証詞からもよくわかります。モラビア兄弟団の地ヘルンフート訪問の話、宣教のために骨をうずめる覚悟で他国に渡る高齢の兄姉の姿、心打たれるものでした。

この群れに聖霊の火を!全員での祈りから火がつき、異言の祈りの中でペンテコステ状態になりました。声が嗄れんばかりです。涙が出ます。やっぱりご臨在が強いなぁ。天が降りてきて明るい黄金色のご臨在に包まれていました。天の都が来ていました。感謝です。もっと祈っていたかったです。主よ、あなたこそ喜び、私の心の火です。近しい主に感謝します。

敬愛する師の講話CDと書籍を手に入れ、最近示されている”キーワード”を探しています。以前に聞いたが、詳しくわかりません。まだ見つけられずにいます。しかし、そこにはとんでもない信仰の奥義がありそうです。尋ねていきます。

 

レーマを読み解く20 〜笛吹けど踊らずとは

マタイ伝11章より

11:16ところで、わたしは❶この世代を何にたとえようか? それは、❶小さい子供たちが市場に座って、❷他の子供たちに呼びかけるのに似ている.

11:17 ❶彼らは言う、『❶わたしたちは❷あなたがたに❸笛を吹いたのに、❷あなたがたは踊らなかった.❹弔いの歌を歌ったのに、嘆き悲しむことはなかった』。

11:18 ヨハネが来て、❺食べることも飲むこともしないと、『彼は悪鬼にとりつかれている』と❶彼らは言う。

11:19人の子が来て、❻食べたり飲んだりすると、『見よ、食いしんぼうで大酒飲み、❼取税人や罪人の友』と言う。しかし、❽知恵はその❾働きによって義とされる」。

11:20「それからイエスは、❿力あるみわざの大部分がなされたのに、悔い改めなかった町々を、叱責し始められた.」(回復訳)

今の世の中を見ますと、その時々の為政者の政策やマスコミの作り出す流行によって、人々の言うことが大きく変わります。戦前のキリスト教徒も無意識のうちに時勢の風潮に巻き込まれ、敵対心を植えつけられ、大勢の言うことに従い戦争に向かっていきました。かたや、鬼畜米英と言っていた人々が、終戦マッカーサー率いる進駐軍に物資をもらい、政治も文化もアメリカ寄りに一変したのです。こんな世の傾向は、今も同じです。

主イエスは、❶この世代を市場に座っている小さな子供たちのようだと言っています。❶彼らは、❸笛を吹いたのに❷あなた方は踊らなかったと言い、❹弔いの歌に❷あなた方は悲しまなかったと言うのです。つまり、❶彼らのやる遊び仲間に入らなければ、その者を批判するのです。イエスの世代だけではなく、この世は、そんな遊びを繰り返しています。❶多数派が❸笛を吹いたら一緒に踊れ。❹弔いの歌を歌ったならば、悲しい顔をしろと言うのです。まるで全体主義を指しているようです。

主イエスはそんな世代を批判しています。つまり当時のユダヤの為政者や宗教指導者たちは、自分たちに調子を合わせないバプテスマのヨハネが❺断食をしていれば、それを悪鬼につかれていると批判し、イエスが❻飲み食いしていれば、大酒飲みと批判するのです。その当時のユダヤ人たちも、自分たちの考えと違うイエスたちを、奇跡力の伴う事実を無視し、自分たちになびかないことを批判したのです。また、❼取税人や罪人を毛嫌いし、差別しているのです。しかし、イエスの❽知恵の正しいことは、その❾働きによって示されています。つまり、主イエスは、その言葉と行動が一致しており、その❾働きは奇跡を伴うもので、神からの権威あるものであるとわかる方でした。しかし、当時の多数派の人々は信じようとしないばかりか、批判までしたのです。自分たちに都合が悪ければ、敵とみなし、真理をねじ曲げてあらさがしし、批判します。そして、自分たちの言うことを聞かない者は力ずくで十字架に架けるのです。

今の世代でも、そんな集団がたくさんいることを感じます。「笛吹けど踊らない」者(=自分たちの思い通りにならない者)を迫害し、真理から目を背けるのです。

11:20「それからイエスは、❿力あるみわざの大部分がなされたのに、悔い改めなかった町々を、叱責し始められた.」とあります。コラジン、ベツサイダ、カペナウムで行われた❿力ある御業。しかし、人々は❿力ある御業の事実を無視し、多数派や宗教的権力者になびき、イエスを批判し、結局悔い改めることがなかったのです。

キリストは、昨日も、今日も、永遠に変わらないお方です。このお方に従うということは、この世と違う生き方をすること、否、この世と違う生き方にならざるを得ないのですね。

(自分のこの解釈は、回復訳の注解と、違うようなので書きました。誤っていたら教えて下さい。)

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以下、探求中の項目

われわれの心の中には、意識と無意識があります。無意識というと通常は潜在意識のようなものと混同されます。潜在意識は単に意識されないものであり、外界からの宣伝や教育、その他の操作によって変えることができます。
それに対して、無意識はフロイトが『超自我』と呼ぶものですが、それは状況の変化によって変わることはないし、宣伝や教育その他の意識的な操作によって変えることもできません。フロイト超自我について、外に向けられた攻撃性が内に向けられたときに生じるといっています。一体、無意識の中の超自我とは、何でしょう。そして、キリストの霊が、その超自我とどのように関係するのでしょうか。探っていきたいです。

 

✟祈りの中で97 ~偽善者よ目の梁を取り除け

今日は、実生活の中で自身には何も良いものがないことを体感しました。都合の悪いことに嘘をつく自分。やっぱり「自分には何も良いものはない」。そして、聖霊様と主のご臨在を意識しなければ、まちがいなく肉のアダムが出てくるのです。本当に残念な者です。

「『わたしは彼を知っている』と言いながら、彼の戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人の内にありません.」Ⅰヨハネ2:4(回復訳)

まったく、自身は偽り者でしかないのです。しかし、贖われた今、もはや自分を見ているヒマはないのです。

ここ数日、「目の中の梁」について聞いていますが、礼拝の中でインスピレーションが来ました。マタイ7章より。

7:3なぜ、あなたの兄弟の目にある❶ちりを見ながら、自分の❷目にある❸梁に気づかないのか?

7:4見よ、❸梁があなたの目にあるのに、どうしてあなたの兄弟に、『あなたの目から❶ちりを取らせてください』と言うことができようか?

7:5偽善者よ、まずあなたの目から❸梁を取り除きなさい.そうすれば、あなたは、❹はっきり見えるようになって、あなたの兄弟の目から❶ちりを取り除くことができる。マタイ7:3-5(回復訳)  

 「❸梁(はり、りょう)とは建物の水平短径方向に架けられ、床や屋根などの荷重を柱に伝える材」とあります。それは、水平に架けられる木材です。なぜ、❷目の中の❶「ちり」と比べて❸「梁קורה」があると言ったのでしょうか。「大きなごみ」「木切れ」「とげ」「丸太・柱」でもいいのではないでしょうか。よりによってあまり馴染みのない❸「梁」と言う言葉を遣うのには、何か理由があるはずです。

マタイ22:36-40より

「先生、律法の中でどれが大切な戒めですか?」

エスは彼に言われた、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが大切な第一の戒めである。第二もそれと同じである.『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。これら二つの戒めに、すべての律法と預言者がかかっている」。(回復訳)

「On these two commandments hang all the law and the prophets.」
‭‭Matthew‬ ‭22:40‬ ‭KJV‬

すべての律法と預言者が架かっているのです。どこに?主に向かう縦の戒めと隣人に向かう横の戒めに架かっているのです。

 ❷目の中の❸梁とは、十字架の横木のようです。それは、縦の柱とクロスします。縦の柱は、天へ向かうベクトルです。天を見て、天を仰ぎ、天に向かうものです。そして、❸梁(横木)は、左右に水平に向かうベクトルです。梁とは、天に向かわずに、水平にこの世を見渡す世に向かう❷目、世にとらわれた目です。天ではなく、世を見る❷目では、主イエスの言ったように、その闇はどんなに暗いことでしょう。

「偽善者よ、あなたの❷目に❸梁があるから、はっきり見えない」と言っています。「❸梁を取り除きなさい.そうすれば、あなたは、❹はっきり見えるようになる」と言っています。❸梁(横木)のように、つまり、この世を地面に平行に見渡しているから、はっきり見えないと言っているのでしょう。❸梁(横木)ではなく、天へと目を注いでいれば、光が射して見えるようになります。この世の一時の不都合によって嘘をついたり、この世の価値観で生きることもなく、兄弟の方向を見て兄弟のあらを探し裁くこともないはずです。

そして、天に目を向けつづけるなら、兄弟の目からも❶ちりを取り除くこと=天へ目を向けるように導けるのでしょう。この世とのしがらみで自身がゆがめられ、嘘をつき、罪を犯す。それは、この世に❷目を向けているからなのでしょう。私自身の罪の性質は、この世との関係で構築されてしまいます。しかし、天に向かう縦の柱、第一の戒めである「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたのであるを愛しなさい。」マタイ22:37が優先されるべきなのでしょう。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし愛するには、であるを見つめ続けることが、鍵となるはずです。

「わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるエスを、ひたすら見つめていなさい.ご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そしての御座の右に座しておられるのです。」へブル12:2(回復訳)

偽善者にならないためには、この世に目を向ける横方向の❸梁を取り除き、縦方向の天に目を向け、をひたすら見つめ続けることなのですね。そして、主を思うときに、はっきり見えるようになり、自分と同様に隣人を愛することが可能になるのですね。他に目をうばわれやすいこの者も、早くそんな生き方をしたいものです。

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