神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(神の至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

✟十字架 〜神と人への愛に引き裂かれた心臓

祈りの中で示された十字架。

十字架は、愛のクロスだ。縦の木は、父なる神に向かう愛。横の木は、人類に対する深い愛とあわれみ。その二本の木は、ともに強いベクトルとして縦、横に引っ張り合う。縦木は天に向かう愛、横木は、世人に向かう愛。その縦と横の強い引き合いがキリストの心を裂いた。十字架の愛は至高の愛だ。

心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛する愛。隣人を自分と同じように愛する愛。この二つの愛が、大きなジレンマとなる。主は、聖なる方、主に向かうなら、義を貫き、聖であるべきだ。しかし、この世を見ると、罪に汚れ病み、死に向かう多くの人、人、人。彼らを救うためには、彼らの罪汚れ病いを負い、燔祭の生贄として、自らの身体と命を献げる愛が湧きおこる。「父よ、彼らをお赦しください.彼らは自分が何をしているのか、わからないのですから」。しかし、罪の燔祭になることは、父の愛や父との関係が切られることだ。「エリ、エリ、レマサバクタニ」。十字架に架けられたキリストの心臓は、二つの愛に裂かれんばかりだ。どうにもならない愛の葛藤。世人の救いのため、父から捨てられ、そんなキリストの心が張り裂けて、心臓が、十字架にクロスした愛のベクトルで引き裂かれた。縦方向の力と横方向の力に引き裂かれた。ローマ兵が槍で突くと、裂かれた心臓のゆえに、体内の血と水が分離して脇腹から流れ出た。

この三次元の世界に生きる者たちにとっても、同様の葛藤を感じることがあります。主なる神に従いたいが、隣人のために成さなければならないことがある。そんな葛藤を感じたことはありませんか?しかし、われわれは、キリストのように、父との関係を切られることはありません。われわれの十字架は、負いやすいのです。

マルコ8章より
8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた、「だれでも❶わたしについて来たいと思うなら、自分を否み、自分の❷十字架を負い、❶わたしに従って来なさい。
8:35 だれでも❸自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、❶わたしのため、また❹福音のために、❸自分の魂の命を失う者はそれを救う。
8:36 人が全世界を手に入れても、❸自分の魂の命を失ったなら、何の益があるだろうか?
8:37 人は❸自分の魂の命と引き換えに、❺何を与えることができるだろうか?マルコ8:34-37(回復訳)

❶イエスに従ってきたいなら、自分の❷十字架を負えと言っています。❶わたし(イエス)のため、また❹福音のために、❸自分の魂の命を失う者はそれを救うと語っています。

❶主のため、主を愛する第1の戒めのためと、❹福音のため、隣人の救いのため、隣人を愛する第2の戒めのため❸自分の魂の命を失う者はそれを救うと語っています。

そして、見過ごしてはならない、大切な質問をしています。「人は❸自分の魂の命と引き換えに、❺何を与えることができるだろうか?」「Or what shall a man give in exchange for his soul?」Mark‬ ‭8:37‬ ‭KJV‬‬

全世界を手に入れても、自分の魂にはかえられないのに、一体、魂と引き換えに何を与えることができるだろうか?

この質問に実際に答えられなければ、自分の魂は、救えないのかもしれません。

あなたは、自分の❷十字架を負えますか?

主が救ってくださった。それで充分。十字架はイエス様にまかせて....これでは義認までの段階で、幼子のままかもしれません。

❶主と❹福音のために、❸自分の魂の命を失う者はそれを救うと言っているのです。❷十字架は、❶主と❹福音のためのクロスです。❶天の主を愛し、地の世人を愛し、隣人の救いを願い、❹福音のため奔走する。そのために心が引き裂かれんばかりの愛。全世界を手に入れても、自分の魂を失えば空しい。しかし、愛のために自分の魂の命を失うなら、それを救うのですね。天父は、愛のために心引き裂かれる者たちを待っています。思い煩いではない。愛のゆえに心動くことです。愛が湧いて湧いてしようがない。愛の衝動で奔走するマザー・テレサしかり、ダミエン神父しかり、先日紹介した中村哲医師やカナン教会のみなさんもそうでしょう。愛の衝動で、心砕き、神の国を広げていく。それが、主の言う自分の十字架を負うことなのですね。❷十字架を負うとは、天国人の持つ至高の愛を負うことなのですね。助け主なる聖霊さま、慕わしい十字架を、至高の愛を私にも負わせてください。

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たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。Ⅰコリント13章(新共同訳)  

何という御言葉でしょう。アァメン。アァメン。アァメン。

あぁ、何ということか、愛と合一する経験だ。愛が身体に注ぎ込んでくる!キリストは、甘美だ。主の愛が満ち溢れてくる!

 

M・マクドナルド・ベインの危険性 改

マクドナルド ベイン氏の著書を再度調べています。内容が大変に深いので、その出自について筆者も悩んでいます。ベイン氏は、降霊術(聖書で罪とされる口寄せ)を使って語っているのが、大問題なのです。しかし、癒しや良い実を結んでいるなら、それは主イエスからのものです。愛の行いにより、実践されている方達、どうぞ主イエスの権威により癒しの奉仕に励んでください。

内容を検証中です。そのためこの記事は、しばらく非表示にします。

The Greening of Afghanistan (Water, Not Weapons) A Japanese Doctor Initiative work

www.youtube.com

Beginning in 1991, Tetsu Nakamura opened 3 clinics to provide medical service in the mountainous eastern region of Afghanistan.

Starting from 2000, a drought hit the region. A consequence of this drought was the multiplications of diseases due to malnutrition and lack of water. Nakamura stated about this situation: "One irrigation canal will do more good than 100 doctors!". Starting from 2003, Nakamura started building an irrigation canal in Khiwa district of Nangarhar Province, the Marwarid Canal. The canal gets water from "Kunar River", and has a length of 25.5 km.

As of 2016, Nakamura has build or restored 8 additional canals, irrigating 16.000 hectares and supporting the livelihood of 600.000 people in the Gamberi Desert region.

Nakamura declared, "Weapons and tanks don't solve problems. The revival of farming is the cornerstone of Afghanisan's recovery".

I love Tetsu. I am proud of him for he is a Japanese. And I am ashamed of Christian countries bombing them with their overwhelming weapons.
If  Jesus lived in now, He wouId go to Afghanistan and throw his life for Afghan citizens. Muslims respect Jesus as a prophet,you know. But... I wonder why Christian countries kill them.

The Map of Marwarid Canal

マルワリード用水路 参考地図

繁栄の神学の危険性

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我々の祖先、エデンの園でのアダムとエバ、二人は、園の真ん中に、命の木と善悪を知る木があるのを知っており、それらの木を見ていました。

創世記3:6には「女がその木を見ると、それは❶食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」(口語訳) 

とあります。彼らの目は、命の木の実ではなく、❶食べるに良く、見た目も美しく、賢くなれそうな善悪を知る木の実を見つめていました。われわれは二つのものを見たときに、どちらが好ましいかということを、見た目で判断します。まず目で判断するのです。

主イエスは、マタイ6:21-24で「なぜなら、あなたの❷宝のある所に、あなたの心もあるからである。目は体のともし火である。だから、あなたの❸目が単一であるなら、あなたの全身は光に満ちる.しかし、あなたの目が悪ければ、あなたの全身は暗い。もし、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう!だれも二人の主人に仕えることはできない.なぜなら、人は一方を憎んで他方を愛し、一方を重んじて他方を軽んじるからである。あなたがたは、とマモン(富)とに仕えることはできない。」(回復訳)

と言っています。私たちの心の❸目が単一であるならば、心の中に光が射して正しく見ることができると言っています。しかし、もしその目が、違う方向に向かうならば、その暗さはどれほどのものでしょう。

われわれはこの世の中で、宝を見つけることはできません。この世にある宝は、すべてちり、あくたのようなものであるとパウロは言っています。

「しかしさらに、わたしはまた、わたしのキリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに、すべての事を損失であると勘定します.そののゆえに、わたしはすべての事で損失を被りましたが、それらをちりあくたと勘定します.」ピリピ3:8(回復訳)

つまり、この朽ちてしまう世の中のものは、どれをとっても、永遠に残るものではありません。その世の中のものを、求めるのが繁栄の神学です。人がこの世で繁栄を求めるのは、聖書の祝福から見ると間違ったことではありません。しかしその優先順位を間違うことによって、アダムとエバが善悪を知る木の実を食べたように、誤った木の実を見つめて、食べることになるのです。

われわれはまず第一に、命の木の実を取って食べるべきです。それはイエス・キリストの贖いにより御国に入る祝福です。まず、天国を自分のものにすることが、何よりも優先です。しかしその❸単一の目で見つめるのは、天国であり主イエスであるべきです。目を下のほうに向けて、この世を見てしまうときに、❶食べるのに良く、美しく、賢くなれそうな木の実を選んでしまうのです。それは、死をもたらす木の実でした。

主イエスが荒野で40日間の断食をされた時に、悪魔がささやいたささやきと同じです。マタイ4:8-9「悪魔はまた、を非常に高い山へ連れて行き、にこの世のすべての王国とその❹栄華を見せた。そしてに言った、『もしあなたがひれ伏してわたしを拝むなら、これらすべてをあなたに差し上げましょう』。」(回復訳)

悪魔は❹この世の繁栄を見せたのです。そしてそちらに目を向けた時に、こう囁きました。、『もしあなたがひれ伏してわたしを拝むなら、これらすべてをあなたに差し上げましょう』

するとイエスは悪魔に言われた、「サタンよ、退け! 『あなたのを礼拝し、ただにのみ仕えよ』と書かれている」。

まず第一に求めるものは何でしょうか。神の国と神の義です(マタイ6:33)。天国と神の示された義=イエス・キリストです。この世での繁栄などは、御国の祝福に比べれば、塵芥のようなものです。しかし、もし神の国と神の義を第一に求めるなら、それらのものは後からくっついてくるのです。ことさらに祝福や繁栄を第一に求めるのは、他の宗教でも同じです。われわれは祝福や繁栄を求めれば、それを手に入れることができます。しかし、その代わりに大きな代償を払わなければならない危険があるのです。それは、アダムとエバが食べてしまった死をもたらす木の実と同じです。❶食べるに良く、見た目も美しい木の実をまず第一に見つめてしまう人間の弱さ、繁栄の神学の落とし穴です。優先する順番が違うのです。主イエスは、こう言われます。

「まずの王国との義を求めなさい.そうすれば、これらの物はすべて、あなたがたに加えて与えられる。」6:33(回復訳)

祝福や繁栄は、の国との義のあとからついてくるオマケですね。まず、の王国とその義をこの世界に広げなくては...。

長尾先生のお弟子さんの証詞 

この方のお話の中に、秘義があります。何か、とてつもない宝を見た思いがします。紹介させてください。

彼らは無償で癒しを行うグループ(癒し隊)です。宗教とは関係ありませんが、深い真理を実践しています。 そして彼らの行くところに、奇跡が追いかけてきます。

...

私たちは、私たち自身が喜びを頂けるから熊本へ行くのです。
少なくとも私はそうですが、他のスタッフの皆さんも思いは同じだと思います。

何日も仕事を休んで自分のことを後回しにして、しかも自費です。

この世的に見ると一見ばかげたことに見えるかも知れません。
一見、損することばかりしているかの様です。

でもね、そうじゃないの。
とてつもない喜びを頂けるのです。

これは理屈では分からない。
実際にやってみないと分からない。

その喜びがどんなものかは・・・・。

この世的には、

お金がたんまりとあると嬉しい。
好きな人と一緒にいると楽しい。
家庭が円満だと幸せ。
美味しいものを沢山頂けると嬉しい。
趣味も楽しい。

この世的には数え上げるときりがない程、楽しい嬉しい喜ばしいことはあるものです。

でもね、この喜びはすべて「この世的なもの」なんです。

「あの世的」なものではないのですね。

あの世とは天上界、天国のこと。

天国に住む天使たちの喜びは、常に人々の幸せだけを願って日々活動しておられるそうです。

「無償の愛の実践」をしてくれる人を探しておられるそうです

無償の愛の実践をされている方を見つけ出すと、天使たちは共に活動する事を歓喜するそうです。

それと同時に惜しみない応援をして下さるそうです。
私たちが密かに望んでいるものはすべて与えて下さるそうです。

半面、この世的なことに奮闘努力して、努力して努力して得難いものを得ようとするのはそれはそれでいいのですが、一度それを後回しにして愛の実践をしてごらん。
望むすべてのものが労せずして与えられるから・・・・・。

これホントの話です。

でもね、本当はこのことを言ってはならないのです。
言うと、ご褒美を目的にする人が居かねないからです。
これは本末顛倒ですね。

しかし、仮に本末顛倒でもいいのです。
ご褒美を目的にしたって与えられますのでご懸念なく・・・・・。

私の場合は理屈ではなく、与えられるからでも自分の心が喜びを頂けるからでもなく、ただ「それをしたいからやっている」だけなんです。

その結果、すべてのものが与えられているのです。
知らず知らずの内に引き寄せているのです。

この無償の愛の実践を命がけでされたのが長尾弘先生です。
先生はこう言われました。

「愛の実践をすることで肉体を酷使すると、心に無上の喜びを頂けます。心が喜んでくれるのです」と・・・・。

「極限まで肉体を酷使して愛の実践をすると、心の奥底から神がお出ましになられる」とも言われました。

「無償の愛の実践をすると、心のフィルターにたまっているゴミやスモッグが自然に払われてクリーンになり、本当の神さまがお出ましになるのです」とのことです。

求めても得れないものが、愛の実践をすることで得られるとすると、神社仏閣に行って神頼み仏頼みをする必要はないし、ましてやパワースポットに行く必要などさらさらにないですね。

神は私たちの心の奥底に鎮座ましましているそうです
パワースポットは私たちの心の中にあるのです。

神さまが出てこられるのならどんなことでも瞬時に叶う訳ですね。

だから行こう、熊本へ、って訳ではないですよ。

繰り返し言いますが、心が喜ぶのです。
天上界の仲間たちと心を共有して一つになれるのです。

長尾先生は言われました。
「愛の実践をすればする程、天国の蔵に宝を蓄えられます」

愛の実践は心の泉に愛を満々と蓄えます。その愛こそが優しさです。心の泉に愛が蓄えられたら、それを汲みだして他の方に差し出すのです。
蓄えられたら汲みだす、又与えられたら汲みだすという循環の中に生きると無上の幸せが得られることでしょう。

「この地上界にいる人のすべての方に幸せになって頂きたい、健康であって頂きたい」

それが長尾先生の願いであったし、師を慕う私の目標でもあります。

その目標を達成する為の小さな歩みが熊本なんです。

熊本での活動を耳にされた方からよく言われます「素晴らしい活動ですね」とか「偉いですね」とか・・・・・。

そうじゃないんです。
だってねボランティアではなく、私たち自身が喜びを頂けるからで自分の為なんです。だから偉くもなんともない。

最後にまた長尾先生のお言葉を引用します。

「人様に喜んで頂くことをすると、相手の方の心は喜びに満たされます。この喜びはそのまま私の喜びとなるのです」

人の喜びを我が心の喜びとする。
座右の銘です。」~以上。

愛の実践の中に、天使の惜しみない応援があるのですね。

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