神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

震災から6年 大川小、門脇小訪問

家族で石巻を訪問しました。仕事の関係で、かねてから気になる場所でした。なぜ、避難ができず多くの犠牲者を出したのか。

大川小学校

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校舎は、北上川河口から4km上流の土手の下にありました。復興道路をたくさんのダンプカーが行き交う中、廃墟となった校舎が静寂の中にたたずんでいます。

8mを超える津波により全校生徒108人中74人と教職員13人中10人が死亡または行方不明となったのです。津波が近づいていることを広報車が知らせた後に、裏山へ避難していればみんな助かったはずでした。彼らは、裏山へは行かず、周囲の堤防より小高い新北上大橋のたもとを目指しましたが、堤防を越える高さの津波にのまれたのでした。案内してくれた運転手さんの親戚の子も二人亡くなったと言っていました。

海抜1m余に位置する二階建て校舎も、屋根まで津波にのまれました。廃墟となった校舎は、時が止まっています。

あたりを取り囲むこの重い雰囲気は、何だろう。やるせの無い死を受け入れられない、たくさんの魂の声が「どうして?」と言っています。

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門脇小学校

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石巻湾から近い門脇小の全校生徒は裏山へ避難し、迎えに来た保護者も裏山へ登るように教職員が誘導しました。三階建の校舎は、屋上まで波に沈みましたが、全員が裏山に避難し助かりました。校舎は震災遺構となり、保存のため整備されています。

しかし、門脇の海沿いの住宅は流され、非可住地になっており、校舎の周りはたくさんの墓に囲まれています。

石巻では、幽霊が多く出ると聞きます。死後のことなど考えたことのない人々が、津波にのまれて亡くなったのです。自分が死んだかもわからない人々の想念が、タクシーを止め、自宅に向かおうとするそうです。自分が死んだのかどうかとタクシーの運転手にたずねたりすると言います。普通の生活をしていて、突然命を奪われた人々。神を求める心もなく、どうしたら良いかわからない迷いの霊がこの地に残っています。信仰心を持ち合わせてない者たちは、死後もこの世から離れられないのでしょうか。不思議な話です。

「しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである。」
‭‭ヨハネの第一の手紙‬ ‭4:6‬ ‭(口語訳)

祈りの中で102 〜我らの的はずれを赦したまえ

風呂に入って身を清め、ひとつのイメージの中で夜の祈りの中に入りました。いつもより眩く、たくさんの幻視が来ました。

①父と子の関係とは、血縁の家族の関係だ。ことばを交わさずとも、父の考えていることがわかり、子の思いがわかる。年を経ればなおさらに父と子の思い、互いの配慮と行動は、まるでひとりの人のようにひとつとなる。ときに、父は子のために生命を捨てる。子も父のためにいのちをかける。あなたは、創造主と、父と子の関係にあるのです。それは、どういう関係なのか、その重大さ、その恵福はどんなに絶大なものかを知りなさい。

 

②大衆の面前で裸のまま十字架に釘付けにされ、晒されたことがあるか?家族や友人の前で。ひとつの目で天を眺むとは、この世で十字架に架かることだ。何千という人々がののしり、赤面し、涙を流し、心乱すなか、あなたは、心を乱さずひとつのイメージの中で死ぬことができるか?この世を十字架に架けるとは、そういう体験だ。天を眺む者の生きザマとは、父から目を離さず、どんな状況でも無畏心でいることだ。この世のイメージを捨て去るとき、この世界は、十字架に架けられるのだ。

ガラテヤ2:20を口にするクリスチャンは、たくさんいる。しかし、この世を十字架に架ける者は、本当に少ない。あなたは、家族、友人、大衆の面前ですべての財産を奪われ、鞭打たれ、一糸纏わぬ裸のまま十字架に釘付けにされ、晒されることを、慕わしいと思うか。あなたは、永遠のいのちのために、あなたの大切な家族、友人、財産、いのち、尊厳までもこの世の全てとともに十字架に架けることができるか。十字架に架かるとは、そういうことだ。殉教した我が弟子たちのように、十字架を慕わしいと思うほどに天国を求め、神の義である十字架を求めることができるか。

 

③我らの的はずれ(罪)を赦したまえと祈るが、的はずれとは、何か?神の国と神の義を求めないことではないか。おまえの兄弟たちは、神の国を垣間見ず、祈りの中で滅びゆく世のものを求めるのは、なぜだ。わたしが教えた祈りに、この世のものを求めたことがあっただろうか。我らの的はずれを赦せと言うなら、病気や煩いや不満を感じていることを悔い改めよ。病いが治らない不信仰を悔い改めよ。この世の煩いや不満を感じる心は、天に向かってはいない。神の国と神の義を求めていない心があるなら悔い改めよ。真に神の国と神の義を求めているなら、そのあとで、父にお願いすればよい。父は、あなたが求める前にその必要をわかっておられることを知れ。神の国と神の義を手にすれば、この世のものは添えて与えられる。

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ぶどうの木の中に住むとは

ヨハネ伝も回復訳で読むと、直接に来ますね。

15:4わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない。

15:5 わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。(回復訳)

ぶどうの木の中に住む、わたしの中に住む〜とはどうすることなのでしょうね。

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ぶどうの枝が、ぶどうの木の中に住んでいると、何もしなくても豊かな実がなるものです。神の生命に浴していれば、その生命にあずかれるのですね。

*家の葡萄が実りました。おいしくいただいています。感謝!

トマスの福音書24④ への備え 〜心の偶像を捨て去れ!

トマスの福音書24④を開示してからも、まだ理解できない方たちが、無理くり偶像崇拝をしているのがわかります。まず神の国とその義を求めるべき内容なのに、この世のことを第一に求めている方のことです。富やお金やこの世の幸福を第一にする方がいて、残念です。相応しくないままでは、恒常的な接触は危険です。やはり、もう一度マルコ伝18章からレーマを紐解き、説明します。

※以下が理解できていない者には、トマス24はわからないでしょう。どうぞご理解ください。

マルコ18:14ー21

14ところで、彼らはパンを持って来るのを忘れ、舟の中にはパン一つのほか、持ち合わせがなかった。

15エスは彼らに命じて言われた、「気をつけなさい! パリサイ人のパン種とヘロデのパン種を警戒しなさい」。

16彼らは互いに論じ合って、「これはわたしたちがパンを持っていないからだ」と言った。

17すると、エスそれを知って、彼らに言われた、「❶なぜ、パンを持っていないからだと、❷論じ合っているのか? あなたがたはまだ❸気づかないのか、❹理解しないのか? あなたがたの心は、❺かたくなになっているのか?

18目があっても❻見えないのか? 耳があっても❼聞こえないのか? ❽覚えていないのか?

19わたしが五つのパンを五千人にさいた時、あなたがたはパンのかけらを、いくつの手かごいっぱいに拾い集めたか?」。彼らは「十二かごです」と言った。

20「わたし七つのパンを四千人にさいた時、あなたがたはパンのかけらを、いくつのかごいっぱいに拾い集めたか?」。彼らは「七かごです」と言った。

21エスは彼らに言われた、「あなたがたはまだ❾理解しないのか?」(回復訳)

ここで主イエスは、❶パンのことなどどうでもいい!❷まだ論じ合っているのか?❸気づかないのか?❹理解しないのか?❺かたくなになっているのか?❻見えないのか?❼聞こえないのか?❽覚えていないのか?❾理解しないのか?~と本当にくどいほど弟子たちに語っています。つまり、とてつもなく大切なことを弟子たちが理解していないことにいら立ち、腐心しているのです。

さて、みなさんは、ここで主イエスが何にいら立っているか❹❾理解していますか?これがわからなければ、天国は遠いのです。

弟子たちに「信仰がないこと?」でしょうか。一部正解かもしれません。「五千人の給食や四千人の給食を見ているのに、忘れたパンのことを論じている」不信仰でしょうか。確かにその通りです。でも、この「❹❾理解」とは、信仰ではないのです。また、❺かたくなで❻見えない、❼聞こえない、❽覚えない、❹❾理解しない~と言っているのです。「おまえたちは信じない、信仰がないのはどうしたことか」とは決して言っていません。❷~❾は、奇跡的事実について認識するための土台がないことを叱っているのです。弟子たちは、この箇所では、イエスが言われたことが最後までわからなかったと思っています。私の知る限り、現代のキリスト教界でも、この箇所を説明できる方が少ないのではないかと思っています。トマスの福音書24を開示し説明しても、理解できないで、この世のことを求め、あれこれ論じている連中が多いのです。

主イエスは、今も❷まだ論じ合っているのか?❸気づかないのか?❹理解しないのか?❺かたくなになっているのか?❻見えないのか?❼聞こえないのか?❽覚えていないのか?❾理解しないのか?としつこいくらいに言いたいはずです。

関連する出エジプト記20:3-4を紹介します。十戒の最初の大切な戒めです。

3あなたはわたしの前で、他の神々を持ってはならない

4あなたは自分のために偶像を造ってはならない.❿上は天にあるもの、下は地にあるもの、地の下の水の中にあるものの、どのような形をも造ってはならない。(回復訳)

※❿この空の上、地上、地下、水中(=この世)でどんな形をも造ってはならないのです。

弟子たちは、いったい何を❷論じていたのでしょうか?「彼らはパンを持って来るのを忘れ、舟の中にはパン一つのほか、持ち合わせがなかった」ことです。彼らは、イエスが七つのパンで、四千人の給食を行った一大奇跡を目の当たりにした後、「パンを忘れた、パンが一つしかない」とこの世(三次元)の発想をしたのです。

この世の発想は、いつも固定観念に囚われた心から来ます。固定観念とは、心に像を「形造る」ことです。「手元の一つのパンでは、みんなが満腹にはならない。せいぜい二人が食べればなくなってしまう」~そんな形(偶像)を造ってしまうのです。弟子たちが目を向けたのは、「持ってくるのを忘れたパン」と「今持ちあわせているパンひとつ」でした。それは、彼らの偶像です。彼らが見つめていたのは、この世にあるパンです。

しかし、主イエスが見つめるのは、YHWHであり、YHWHの前で、他の神々(偶像)を持ってはいないのです

YHWHとは、「在りて有る」方です。五つのパンしかなくても、五千人を養う「在りて有る」方です。

五千人の給食を、あれこれ計算して本当だろうかと悩む人がいます。この奇跡では少量の食物で五千人が満腹し余るような、物理的には頭を抱えてしまう奇跡が行なわれたのです。それも四福音書に共通して書いてある実際に弟子たちが見た印象的な奇跡だったはずです。そして、この解き明かしは、ヨハネ伝6章でイエス自らが答えています。

エスは彼らに答えて言われた、『まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.あなたがたが⓫わたしを捜し求めるのは、しるしを見たからではなく、⓬パンを食べて満腹したからである。 ⓭朽ちる食物のためにではなく、⓮永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい.⓯これこそ、人の子があなたがたに与えるものである.それはに、なるが⓰証印を押されたからである』。」(ヨハネ6:26-27 回復訳)

 主イエスの奇跡の中には、無から有を生じる奇跡がありました。これは、世人には不思議で、カナの婚礼での水をぶどう酒に変える奇跡のように、三次元の常識を超越するものでした。この聖書箇所では、 五千人の給食をあれこれ計算し考えてしまうくらい、不思議な奇跡をおこなっています。ここで群衆がイエスを⓫探し求める行為は、まさにご利益信仰で、群衆がこの世的にパンを食べ⓬満腹したからにほかありません。朽ちるこの世の食物についての奇跡をあれこれ考えることについてイエスは、⓭朽ちる食物を考えるな⓮永遠に至る永存する食物を求めよと言っています。それは、「この世的な⓭朽ちるパン(ことば・考え)を捨て、⓮永存する天国の食物(天のことばや考え)をもって考えるようにしろ、そのために労せよ」と言っているのです。先に話したように三次元世界の物理的な食物(ことば・考え)を求めては、⓮永遠の食物(天のことばや考え)、天的恵みやイエスの言葉の真意を得ることはできないし、理解できないと言っているのです。つまり⓯これこそこの世(三次元)の考えを超越した「⓮天国(高次元)のみことば・考え方」であり、⓯人の子(イエス)があなたがたに与えるもの(食物)であると強調されている奇跡なのです。父なる神がイエスに⓰証印を押されたように、天に入る証印を得て「この世の考えでなく、天の考えだけで生きよ。」とおっしゃっているのです。主イエスは、世人と違う土台で考え、この世と異なる土台にいらっしゃり、⓭朽ちる肉の食物のことなど考えるな、天的な食物をまず考え求めよと言われているのです。

 この奥義がわからない者は、いつまでも「5つのパンはどうやって配った」とか「こんなはずはない」と計算高くあれこれこの世の基準で考え、天国の基準を見ることができないのです。船上でパン種について話されたとき、あれこれこの世の感覚で議論する弟子たちを叱ったように、そんな者たちを「❹まだ理解しないのか」(マルコ8:17)と叱っているイエスの姿が目に浮かびます。

 主イエスは、地上の見えるものによらず、天国に生きていました。

それを示すように、次の⓮永遠の命に関わる大切なみ言葉につながっていきます。

あなた方は⓭この世に属しており、わたしはこの世に属していない。それであなた方は自分の罪のうちに死ぬ***『⓱わたしはある』を信じなければ、あなた方は自分の罪に死ぬ」(ヨハネ8:23-24 原文校訂口語訳)

エスは、まさに神のひとり子。イエスこそ⓱無から有を生み出す神と一体になった方であると確認できるみ言葉です!この一連の給食の奇跡は、まさに弟子たちに天の現実や信じて願うことが実現する天の法則の理解を諭し導くためのものでした。ハレルヤ!

 まだ理解しがたいでしょうか。

敬愛する師は、「頭でいろいろ考えるなら、天は閉じてしまいます。西洋の教条主義に陥ったら、もう信仰はない。わかって信じようとしたら、キリストはわからない。キリストとともに歩いて、やっとそれから体験でわかるのだ。啓示的真理は突然開かれるのです」と話していました。

まず、永遠の生命を求めることです。神の国と神の義を第一に求めることです。 この世のものを求めていては、開かれません。一番大切な神の国と神の義だけを考えることが、❹❾まだ理解しないのか?とくどいように問いただした主イエスの真意です。

あなたは、まだこの世のことを心で論じていますか?だとしたら、あなたの心は、この世のものでいっぱいです。あなたの心をこの世のイメージ(像)で満たしているなら、天国は遠いのです。あなたの心を天国のYHWHだけでいっぱいにするとき、全てが添えて与えられます。無から有が生じ、パンも出てくるのです。しかし、基本はYHWHだけを求めて、天国のイメージに浸かるのです。最早、この世のイメージは、きれいに捨て去ることです。

自身も、まだ理解しないのか?と言われないように実践したいのです。

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❤️トマスの福音書24④ 〜神の国のイメージを!

開示してから、偶像を拝む(この世を求める)者たちが天国を開こうとしているのでしょう、雑念というか、変なイメージを出しているため、今日の礼拝が深まりませんでした。偶像崇拝者がご臨在に触れると、旧約にあるように癌になったり突然死します。

まず神の国とその義を求めるべき内容なのに、この世のことを求めている。相応しくないままでは、恒常的な接触は危険です。

トマスの福音書24④ への備え 〜を理解してから、天を開いてください。

****以下原文************

継続してトマスの福音書を訳し、解説しています。 原文は古いコプト語ですので、表示できません。英訳したものを載せます。24節の「イメージ」について体験することで、この世から遊離する危険があるかもしれません。それは、普通の生活が出来なくなると言うことです。それで開示すべきか悩んでいます。しかし、山上の垂訓にあるような高い天の水準に心が達している方もいますので、その方たちのためにも開示してみます。これを体験することは、絶大なる天の恵福を受ける機会でもあります。いよいよ佳境です。後半を解説します。
24節
> Did-JS24 look at-some-little-ones ()taking-milk. > Said-he to-his-disciples this: These-little-ones who-take-mil-k, they-compare to-those-who-go in to-the-king-dom. > Said-they to-him this: then, ()being little-ones, we-will-go into -the-kingdom? > Said-JES2 to-them
this: when you(pl)-should-make-the-two one, and if-you(pl)-should-make-the-side-inner like the-side-outer,and the-side-outer like the-side-inner, and the-side-upper like the-side-lower, > and so you-(pl)-will-be-making the-male and-the-woman that-one alone, so that not-the-male become-male, (nor)-the-woman become-woman; > when you(pl)-should-make some-eyes to-the-place of-an-eye, and a-hand to-the-place of-a-hand, and a-foot to-the-place of-a-foot; an-image to-the-place of-an-image, then you(pl)-will-go into - the-kingdom.
24直訳
JS24 イエスは❶ミルクを飲んでいる、数人の幼な子たちを見た。彼は、弟子たちにこう言った:ミルクを飲むこれらの小さな者たちは、❷王国に行く者たちに比べられる。彼らは、彼にこう言った:それでは、❶幼な子たちになれば、わたしたちは王国に入れるでしょうか?イエスは、彼らにこう言った。あなたがたが、❸二つを一つにするとき、そして、もしあなたがたが❹内側を外側のようにするならば、そして❺外側を内側のように、そして❻上側を下側のように、そしてあなたがたは❼男も女もただ一つにするだろう。それは、男が男性にならず、女が女性にならない。;
もしあなたがたが、❽いくつかの目を❾一つの目の場所に作るなら、24③そして➓一つの手を一つの手の場所に作るなら、⓫一つの足を一つの足の場所に作るなら;24④⓬一つのイメージを一つのイメージの場所に作るなら、そのときあなたがたは、王国に入るだろう。

原文では「⓬一つのイメージ」は、「IKCON:イコン」です。古来イコンは、板に描かれた聖画を指します。像や絵とも訳せます。ここでは、心の中で描く絵として、「イメージ」と訳します。「⓬一つのイメージを一つのイメージの場所に作るなら」は、❾➓⓫一つの目、手、足の場合と同じで、場所=天国(または地上)に作ることになります。天国は地上にもあるのです。つまり「⓬一つのイメージを天国に形成するなら」となります。⓬一つのイメージとは、どんなイメージなのでしょうか?望んでいる事柄なのでしょうか?
これは、信仰により天国の⓬イメージをこの地上にも形成することです。この説明が、ヘブル書11章にあります。
11:1さて信仰とは、⓭望んでいる事柄plを⓮実体化することであり、⓯見ていない事柄plを⓰確認することです。......11:3信仰によって、わたしたちは、⓱宇宙がの言葉によって組み立てられており、こうして、⓲見えるものは現れている物から出て来たのではないことを理解します。」ヘブル11:1.3(回復訳)
私たちは、この世に生きている間、目に見え触れる物質に支配されています。それは、長年体験として肉に染み付いて、三次元のイメージとして染み込んでしまっています。

4千人の給食の後で弟子たちがパンのことを心配すると、イエスは、「まだわからんのか!」と叱りました。弟子たちのように、何を食べようか、着ようかとこの世のことで頭がいっぱいでは、「まだわからんのか!」と言われてしまいます。この世の物質的イメージを捨て去ることが必要です。

ここでは、この世のものを見つめイメージするのではなく、⓭望んでいる事柄(複数)を実体化し、⓯見ていない事柄(複数)を確認せよと言っています。地上で⓭望んでいる事柄(複数)を実体化するのです。

⓭望んでいるまだ目に見えない事柄は、複数形です。わたしたちのキリストは、内にいて、栄光の望みであり(コロサイ1:27.Iテモテ1:1)、それは栄光のうちで体の贖い、変貌となるでしょう(ローマ8:23―25)。これは救いの望み(Iテサロニケ5:8)、永遠の命の望み(テトス1:2.3:7)です。それはまた神の栄光の望み(ローマ5:2)、わたしたちのために天に蓄えられている望み(コロサイ1:5)です。著者のパウロは、復活の力に預かり栄化され天国に凱旋することを望んでいました。

⓭望んでいる天国を実体化し、⓯見ていない天国を確認せよ。❾一つの目で天国を見つめ、一つの天国のイメージの場所に入れ(地上で天国を開け)とも受け取れます。⓱宇宙がの言葉によって組み立てられていて、⓲見えるものは現れている物から出て来たのではないことをまず理解することです。この世界は、神の言葉に支配され、見えないところから、見える物が物質化するのです。わたしたちの周りの現世の⓲見えるものは、現れている物から出て来たのではなく、神の支配する領域により現実化したのです。このことを理解するだけでは、❷天国(神の支配)を現実化するまでには、至りません。次の体験が大切です。

この世界が天国、則ち神の支配する領域になることが大切なのです。

それは、⓬一つのイメージを確認することです。主イエスは、何度もこのことを話しています。「時は満ち、神の国は近づいた!」マルコ1:15「悔い改めよ!神の国は近づいた!」マタイ4:17「神の国は、あなたがたのただ中にあり!」ルカ17:21「天国は、畑(心)の中の隠された宝だ!」マタイ13:44「神の国は、畑に落ちた種だ!」ルカ8:8「 わたしの指によって悪鬼どもを追い出しているのであれば、の王国はすでにあなたがたに臨んでいるのである!」ルカ11:20

主イエスのように、天国の⓬イメージを確認し目視する方法については、1️⃣基礎として、聖霊体験が必要です。聖霊体験がある方は、御父に呼びかければ、すぐに天が開かれるからです。飢え渇いて求めるなら、与えられます。しかし、はっきりした体験がなくても、次のようにしていけば、天を開くことができるようになるでしょう。

それは、2️⃣神の臨在体験を積むことです。ここでのイメージとは、❷天国(神の支配する領域)のイメージだからです。⓬天国のイメージをはっきり掴むことは、父のご臨在に触れる神の国体験から始まります。詳しく言うと、神の支配する領域に身を置く体験です。

このご臨在に取り囲まれる天国の空気(雰囲気)は、礼拝の中で神様を讃美し求めるときに、体験できます。霊的な教会(エクレシア)に行けば、礼拝中に短時間ですが体験できるはずです。また、祈りの中で体験できます。この貴い体験を求めて行くことが必要です。

短い時間でも、神の聖徒たちの間に入りこの神の国体験を積むことで、あなたの周りは天国、就ち神の支配する領域になるのです。その時に、天から神の国が降りてきます。光あふれるご臨在、天使たちがたくさん来る強い粘っこいご臨在や、引き上げられるようなご臨在の経験ができます。3️⃣その天国を幻視できれば、しめたものです。❾ひとつの目で天が降りてきてあなたを囲むようなご臨在の様子を見とってください。それを⓬一つのイメージとして、焼きつけてください。

詳しくは、「ひとつの目」について、このブログに記事がたくさんあります。どうぞ調べてください。

これからが、大切です。わたしたちは、この世に長く住んできました。そのため、➓片手⓫片足❾片目が、わたしたちをこの世の常識に呪縛し、つまずかせます。それを、YHWHに捧げるのです。天国へ持っていってしまうのです。同じように、わたしたちが心に刻んだ三次元のこの世のイメージも、わたしたちをつまずかせるのです。

この世のイメージを捨て去り、一つのイメージだけを意識してください。そのイメージとは、

天が降りてきてあなたを囲むようなご臨在のイメージ です。4️⃣大切なのは、この地上で天が降りてきてあなたを囲むような神のご臨在のイメージ だけを持つことです。この世は、時が経てば消え去るものです。この世の100年後の人たちを、考えてみてください。100年後、あなたは彼らを誰ひとり知らないでしょう。今のあなたの周りの人は、100年後には皆さんほぼ死んでいるでしょう。この世は、時の中で変化するまぼろしです。しかし、神の国では、100年たっても変化はありません。100年たっても、あなたの兄弟姉妹はみんな元気です。

大切なのは、永遠なる神の国の支配をこの世界にも広げ、いつもイメージすることです。生活の中で、礼拝中に体験した神の国の支配のイメージをいつも意識することです。この世のイメージではなく、天国のイメージだけを持つことで、あなたは奇跡の中で生きていけるのです。

このご臨在体験だけが、真実なのです。言い換えると、天国の存在、御父、御子、そして我らの内の聖霊さまが永遠に「在りて有る」真実なのです。

現に私は、この体験により、力ある奇跡を享受して生きています。

「❷神の国は言葉ではなく、力である。」Ⅰコリント‭4:20‬ ‭

この神の国の体験で、⓱宇宙が神の言葉によって組み立てられていて、⓲見えるものは現れている物から出て来たのではないことを知るのです。

「❷神の国は、あなたがたのただ中にあり」ルカ17:21

 「まことに、わたしはあなたがたに言う.だれでも小さい子供のように❷神の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはない」。マルコ10:15(回復訳)

「天におられるわたしたちの父よ、あなたの御名が聖とされますように.あなたの王国が来ますように.」マタイ6:10.11(回復訳)

 

24④意訳
JS24 イエスは❶ミルクを飲んでいる、数人の幼な子たちを見た。彼は、弟子たちにこう言った「ミルクを飲む赤ん坊たちは、❷王国に行く者たちのようだ。」弟子たちは、イエスにこう言った「それでは、❶赤ん坊のようになれば、わたしたちは王国に入れるでしょうか?」イエスは、彼らにこう言った「あなたがたが、ユダヤ人と異邦人の❸二つをキリストにあって一つにし、⓮新しく生まれた新創造された者になるとき、そして、もしあなたがたが赤ん坊が母親に抱かれるように❹内側の聖霊が外側のご臨在に抱かれるならば、そして母と子が一つのように❺外側の神の霊が内側の聖霊と一つになり、そして上の❻天国が下の地上に来るようにせよ、そしてあなたがたは❼男も女もなく、御使いのようにただ一つになるなら。(天には、男性も女性もない)

24②もしあなたがたが、この世に向ける❽いくつかの目(視線)を❾一つの目の場所(天国)に向けるなら、(つまりミルクを飲む赤ん坊が母だけを求め、母を見つめるように)。24③そして目だけでなく、この世で躓かせる➓片手を主に捧げ、天国に創るなら、この世で躓かせる⓫片足を主に捧げ、天国に創るなら、(片手、片足は天界に。もうひとつの手、もうひとつの足は、地上天に活きるのです);24④この世の⓬一つのイメージを捨て去り、天国の一つのイメージだけを地上に創造し、ただ神の国のイメージだけを意識して地上天を創るなら、そのときあなたがたは、天の王国に入るだろう(天の王国は、あなたがたのただ中にあるだろう。)」

 

※神の支配の中で泳げるほどの体験をしてください。この世のイメージは一切を捨て、まず、神の国と神の義を第一に求め、天国のイメージだけで生きるのです。暑さも寒さもない。痛みも痒みもほぼなくなります。もうこの世の苦悩はなくなるのです。この体験の享受を祈ります。

「彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。」
‭‭エゼキエル47:5‬ ‭(口語訳)

聖霊に満たされ、泳げるほどのご臨在(川)の中へ!深い川で一つの足が川底から離れ出します!

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