神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

神の意思疎通その3 ~御霊の導きからの奇跡31 FBより

  FB過去の記事より

 今日は、永田町の集会に行く予定が、出がけに聖霊様の声で、ある教会を示された。なぜかわからなかったが、このようなことはよくある。そこで急遽そちらに向かった。一度しか行ったことのない教会で、遅れてしまった。入っていくと、説教中の牧師先生が叫んだ。「ああ神様。なんていうことか。」私は、わからなかった。しかし、それは奇跡の始まりであった。牧師夫妻は、木曜から祈っていたという。そして、わたしも示されていた通りにおこなっていた。主はその祈りに応えられた。詳しいことは書けないが、この教会では、使徒行伝時代の出来事が今も継続して起きている。皆で確かに「神様はいらっしゃる」と声をあげた。アァメン。栄光在主!
 主の声は、時々、「本当なの?」と思うことをおっしゃるが、疑わずに従うことが大切です。それに従って、思い違いだと感じることもあっても従うのが訓練です。全く理由がわからず、空振りに終わるときもあります。それでも、主が何か示していることがあります。「その電車を使うな」と聞き、あとで運休になっていたり、「その道に行くな」と聞き、大きな事故があったと聞いたり。
 そんな主の御声の小さな訓練に従っていくと、本当に不思議な奇跡的な御心が示されてくるのです。この御声への応答は、主の御心をさぐるスリルがあります。そして、とてもすてきな祝福がついてきます。
 自分の考えや思いではなく、主の御声に従うことで、羊が羊飼いの声を聴き分けるように訓練されるのですね。

敬愛する師の召命の聖句は、イザヤ30:20-21でした。私のとても大切な聖句でもあります。 
「主はなんぢらになやみの糧とくるしみの水とをあたへ給はん なんぢを敎るもの再びかくれじ 汝の目はその敎るものを恒にみるべし
◉なんぢ右にゆくも左にゆくもその耳に これは道なりこれを歩むべしと後邊(うしろべ)にてかたるをきかん」イザヤ30:20-21(文語訳)
 これこそ、キリスト者の慰めであります。心ぼそく、死の陰の谷を歩むときも、後ろから「これが道だ。これを歩め」との声がするとき、「ひとりではない。主がともにいてくださる」と勇気づけられるのであります。アァメン。

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きな臭い海 ~戦争と戦争のうわさ

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※昨日の空母ロナルド リーガン 

物資補給中、出港間近。

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※艦船が集結する海

3まず第一に、このことを知っておきなさい。終わりの日には、あざける者たちがあざけりをもって出て来て、その欲望にしたがって行動し、

4そして言います、「の来臨の約束はどこにあるのか? 先祖たちが眠りに就いて以来、万物は創造の初めからそのままである」。xxxxxxx

9ある人々が遅れていると思っているように、は約束を遅らせているのではありません。は、だれも破壊に遭うことがなく、すべての者が進んで悔い改めに至ることを望んで、あなたがたに対して辛抱強くあられるのです。Ⅱペテロ3:3-9(回復訳)

あざける者にならず、いつも再臨を意識し、すべての者が悔い改め(方向転換)に至ることを望むべきです。

「されど人の子が来る時、地上に信仰を見んや」ルカ18:8

マアルーラ(入り口)と呼ばれた町

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マアルーラ(Ma`loula、Maaloula、アラビア語: معلولا)はシリア(シリア・アラブ共和国)のリーフ・ディマシュク(ダマスカス郊外県)の町。ダマスカスの北東56kmに位置し、人口のほとんどはキリスト教徒(メルキト派)である。町の名はアラム語の ܡܥܠܐ (ma`lā, マアラ、「入口」)に由来する。

かつて中東・シリア地方の共通語であった西方アラム語が現在でも話されている数少ない場所である。現代西方アラム語はマアルーラのほかには近隣の二つの町(アンチレバノン山脈にあるムスリムの町バハー(Bakh`a)とジュッバーディン(Jubb`adin))でしか話されていない。町はごつごつした山の中に築かれており、標高は1500mを超える。2005年時点で人口は2,000人ほど。

マアルーラにはマル・サルキス(Mar Sarkis、聖サルキス修道院)とマル・タクラ(Mar Taqla、聖テクラ修道院)という二つの重要な僧院(修道院)がある。山の上にある聖サルキス修道院は4世紀ごろに異教の神殿跡に建てられ、質素で簡潔な外観の殉教者聖堂(Martyry)にならってデザインされている。修道院の名前はローマ帝国の兵士で殉教して聖者に列せられたサルキス(Sergius、セルギウス)にちなんでいる。

一方、岩山の奥にある聖テクラ修道院は、パウロの弟子であった貴婦人聖テクラ(Thecla)にちなんでいる。伝承によれば、紀元1世紀、キリスト教徒となったテクラは父の差し向けた兵に追われてこの山に逃げてきたという。彼女が祈ると山は二つに割れて開き、彼女はその間を通って逃げることができた。マアルーラの町の名は、このときの山の割れ目または入口に由来するという。しかしこの話には、マアルーラの住民の間でも様々なバリエーションがある。

その他多くの修道院、女子修道院、教会、神殿、聖域の跡が付近の山中にはあり、崩れ落ちているものもあれば今なお建っているものもある。ムスリムキリスト教徒とを問わず多くの巡礼がマアルーラに訪れるほか、シリアのキリスト教徒の足どりをこの地にたどる観光客も多い。〜wikipediaより

キリスト時代の古代アラム語が、残る町。9月に祭が始まると、山の上に十字架が輝く。戦乱のシリアで、今年も祭ができる幸いを、人々は心から感謝している。

敬愛する師24 〜鉄石に刻みつけよ

敬愛する師の話より

「されど人の子が来る時、地上に信仰を見んや」(ルカ伝18: 8)と、寂寞たる信仰の来世を想うて、主イエスはお嘆きになった。せめて私も終末の日に咲く魂となって、再臨の主、その御瞳をお喜ばせしたい花でありたい。これが私の希望の希望であります。身の程を知る私は、こんなわけで、いつも希望満々である。人に知られずとも、主に知られたい。夜が暗ければ暗いほど、冬枯れがひどければ酷いほど、その日近きを思うて、希望に胸がときめいてきます。まして、この過ぎ越し方を想い、溢るる主の恵みに、感謝は尽きません。

真の祈りは、鉄石よりも固い宇宙意識に、我が祈念を刻みつけてゆくことです。刻みつけた以上は、もう永遠に消えない。やがて事実となって、何らか現象し来るものです。真の祈りなくしてなされた仕事は、どんなに成功に見えても、砂上の足跡の如く、風過ぎれば跡形もないのです。

人々に語るよりも、まず神に語れ。まず神に問え。まず神に聞いて、神学書や宗教書には聴くな。主のごとくに、大いなる叫びと、涙をもって祈れよ。祈りは神聖な労働である。神の栄光はどうしたら現れるか。どんな祈りが聴かれるのか。

第一に、神の御意思に反すると思う事は絶対に願わない。すなわち、神は最善の愛であるから、神の最善しか、自分にも他にも願わない、想わない。

第二に、神のご意志にはどんなことでも(たとえ十字架であっても)従順に従います、と祈り得ること。

この条件下に必ず神の栄光は現れ、神は無限の力を持ってどんな弱い者も助け、協力したもうべき者なることを体験できる。これが私の祈りの秘訣である。〜以上、師の話 1958年

※小生の祈りも、鉄石に刻みつけたい、否、すべての祈りは、間違いなく神の記憶の中に刻みつけられているのです。そして、それは現象し、叶えられます。万が一叶えられなかったとしても、天でその報いを受けとるのです。ハレルヤ!

5778(2017)ローシュ ハシャナ 9.21-22

                   ヨム キプール        9.30

                 🍷  スコット         10.5-6〜11

されど人の子が来る時、地上に信仰を見んや

ヨム キプール⇒スコット ~贖罪日が近づく - 神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

                   

 

トマスの福音書26、27 〜目の中の塵

継続してトマスの福音書を訳し、解説しています。 原文は古いコプト語ですので、表示できません。英訳したものを載せます。共観福音書と共通する節も多くあります。

26

Said-JS26 this: Love-our(sg)-brother like your(sg)-soul. > Guard him like the -pupil of-your(sg)-eye.

27

Said-JS27 this: the-mote
()in-the-eye of-your(sg)-brother, you(sg)-see him; the-beam,hwvr, ( )-in-your(sg)-eye, y ou(sg)-see not it/him; > when
you(sg)-should-cast the-beam out of-your(sg)
-eye, then you(sg)-will-see outward to-cast the-mote  out of- the-eye of-your(sg)-brother. > If-you(pl)-do-not-fast to-the-world, you(pl)-will-fall not to-the-king-dom; > if-you(pl)-do-not-make th e-sabbath(sp) sab -bath, you(pl)-will-look not upon-the-father. 

 

26直訳
JS26 イエスはこう言った:われわれの兄弟をあなたの魂のように愛しなさい。彼をあなたの❶眼の瞳のように守りなさい。

27直訳

JS27 イエスはこう言った:あなたの兄弟の眼の中の❷塵を、あなたはそれを見る。❸梁を、しかしながら、あなたの眼の中にあるのを、あなたは見ない。あなたの眼の❸梁を取り出せば、あなたの兄弟の眼の❷塵を取り出すために、あなたは❹外が見えるようになるだろう。もしあなたたちが、❺この世を断食しないなら、王国には、入らないだろう。もしあなたたちが、❻安息日安息日にしないなら、父を見上げることはない。

 

ここでは、兄弟を愛することについて、主イエスは述べています。それは、自分の❶瞳のように、兄弟を守れと言っています。さて、兄弟を何から守るのでしょうか?それが27節に書いてあります。そこでは兄弟の目にある❷塵について語っています。兄弟の❶目の中の❷塵を取るために、まず自分の❶目の中にある❸梁をとりなさいと言っています。この箇所は、共観福音書の中にもあります。マタイ7章では、兄弟をさばくことについてイエスがたとえ話をしています。

7:1あなたがたは裁いてはならない.あなたがたが裁かれないためである。
7:2 なぜなら、あなたがたが裁くその裁きで自分も裁かれ、またあなたがたが量るその量りで自分も量られるからである。
7:3 なぜ、あなたの兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁に気づかないのか?
7:4 見よ、梁があなたの目にあるのに、どうしてあなたの兄弟に、『あなたの目からちりを取らせてください』と言うことができようか?
7:5 偽善者よ、まずあなたの目から梁を取り除きなさい.そうすれば、あなたは、はっきり2見えるようになって、あなたの兄弟の目からちりを取り除くことができる。
7:6 聖なるものを犬に与えてはならない.またあなたの真珠を豚の前に投げてはならない.彼らがそれを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことがないためである。
7:7 求めよ、そうすれば、与えられる.捜せ、そうすれば、見いだす.門をたたけ、そうすれば、開かれる。
7:8 すべて求める者は受け、捜す者は見いだし、門をたたく者には開かれるからである。

〜中略〜〜〜〜

7:13あなたがたは狭い門から入りなさい.崩壊に至る門は広く、その道は幅広い.そして、そこから入って行く者が多い。
7:14 命に至る門は狭く、その道は細いので、それを見いだす者は少ない。(回復訳)

〜以上から、マタイ伝では、兄弟を裁くことや命に至る門について話していることがわかります。

 

兄弟の❶目の中の❷塵とは、何か欠点のように解釈できます。文脈からは、❷塵=罪のように解釈する人も多いようですが、塵に対して梁を大きな罪に置き換えるには、無理があります。まず、目の中に❸梁が入っている者(大きな罪を犯す者)が、兄弟の目の❷塵を見ることなどできません。いったい目に梁があるとはなんでしょう?それは、兄弟の目の中の❷塵を一生懸命見ようとしている状況を言うのではないでしょうか。つまり、今までひとつの目について話したように、天国を見つめるべき目を他に向け、命に至る門を見ず、兄弟のあら探しに向けていること自体が目の中に❸梁がある状態なのです。それは天国を見ることをせず、自分の目がきちんと上を向いていない状況です。そのことを主イエスは目の中に❸梁があると言っているのでしょう。自らの❶目の中の❸梁をとりなさい〜とは、❹外が見えるようになることです。続いて、❹外が見えることについて説明されています。

「❺この世を断食しないなら、王国には、入らないだろう。」と言っています。これは、❺「この世を断つこと」です。また、「もしあなたたちが、❻安息日安息日にしないなら、父を見上げることはない。」とも言っています。

目から梁を取り除くとは、❺この世の方向に目を向けるのではなく、❻安息日ユダヤ人がするように、もっぱら神を思う時間を過ごすことなのではないでしょうか。このように、安息日に人やこの世を見るのでなく、専ら父を見上げることが、❶目の中の❸梁を取り除くことであり、兄弟を自分の❶瞳のように守ることにつながるのでしょう。意訳して見ます。

26意訳

JS26 イエスはこう言った「われわれの兄弟をあなたの魂のように愛しなさい。彼をあなたの眼の瞳のように守りなさい。」
27意訳
JS27 イエスはこう言った「あなたの兄弟の眼の中の塵を、あなたは見ている。しかしながら、あなたの眼の中にある梁を、あなたは見ていない。あなたの眼の梁を取り出せば、あなたの兄弟の眼の塵を取り出すために、あなたは外(天界)が見えるようになるだろう。(すなわち、人のことを見ているようでは、王国は見えない)  もしあなたたちが、この世のことを断たないなら、王国には、入らないだろう。もしあなたたちが、安息日安息日としないなら(安息日を聖とし、神を求めないなら)    父を見上げることはない。」

 

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2017/04/02/225500