神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

♫聖霊の風にのり ~島唄の替え歌 

沖縄の牧師さんが歌っていましたが、歌詞を忘れたので自分で賛美歌にしてみました。島唄の替え歌です。 

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すべてのくにたみよ かえれー いまかみのくに

ことばーはひととなり われらのうち やどられた

くりかえすかなしみを ただひとりせおうため

 

じゅうじのうえで つみせおわれて

じゅうじのうえで ちをながされた

 

キリストよ よみがえり かみのいぶき うみをわたれ

キリストの ふくいんを とどけておくれ すべてのひとへ

 

ひとのこはよみがえり あまぬのがのこるだけ

でしたちにあらわれて やくそくをまてという

 

じゅうじのうえで すくいとげられ

じゅうじのうえで いきふきかけた

 

せいれいのかぜにのり かみのいぶき うみをわたれ

せいれいのかぜにのり とどけておくれ イェシュアのなみだ

 

海よ 宇宙よ 神よ いのちよ

すべてのものに みすくいを

 

せいれいのかぜにのり かみのいぶき うみをわたれ

せいれいのかぜにのり とどけておくれ イェシュアのあいを

 

キリストよ よみがえり かみのいぶき うみをわたれ

キリストの ふくいんを とどけておくれ すべてのひとへ

 

ララララララララ ララララララララ ラララララララララララ

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〜島唄〜 歌詞付き - YouTube

「島唄」の検索結果 - Yahoo!検索(動画)

 

実際にある聖書史跡11 〜止まった太陽

ヨシュア記10章13節に「日はとどまり」とあり、太陽が止まった記述があります。しかし、誤訳だった可能性が出てきました。それは、紀元前1207年10月30日にあった金環日食を指すということです。

クリスチャントゥデイの記事の中に、興味を引く記事があったので紹介します。シェアさせてください。

記事より〜

太陽の外側が隠れず、細い光輪状に見える「金環日食」。ヨシュア記10章13節の「日はとどまり」の記述は、紀元前1207年10月30日にあった金環日食を記したものである可能性があるという。(写真:Kevin Baird)

 

ケンブリッジ大学の研究者らは10月30日、旧約聖書ヨシュア記にある「太陽が止まった」という内容の記述について、紀元前1207年10月30日に起こった日食について記したものである可能性があると発表した(リンク・英語)。事実であれば、ヨシュア記の記述が、日食に関する人類最古の記録になるという。論文は、英王立天文学会の学術誌『A&G』(英語)に掲載された。
ヨシュア記は、イスラエルの指導者ヨシュアが、古代近東の一部であるカナンにイスラエルの民を連れて入り、カナンの王5人と戦う中で祈ったところ、太陽の動きが止まって見えたことを次のように記している。
「日はとどまり/月は動きをやめた/民が敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった」(ヨシュア10:13)
この記述について、同大材料科学・金属工学部のコリン・ハンフリーズ教授は、現代の聖書は多くの場合、太陽と月の動きが止まったことを意味すると解釈し、翻訳していると指摘する。しかしハンフリーズ氏によると、この箇所はヘブライ語の原文では「太陽と月が通常行っていることをやめた」という別の意味にも取れる。
「この文脈では、その箇所のヘブライ語が日食を指している可能性があります。月が地球と太陽の間を通過し、日食が起きたことにより、太陽が輝くのをやめたかのように見えたのです。この解釈は、『静止する』と訳されたヘブライ語が、古代の天文学資料で使用された日食を描写するバビロニア語と同じ起源を持っていることによっても支持されます」
歴史家たちはこれまで、この時代に起こった日食を調べる上で、聖書と共に、エジプト王メルエンプタハ時代のエジプト語の資料を使ってきた。この資料は、紀元前1500年〜1050年に、イスラエル人がカナンに存在していた証拠を示している。しかし論文は、歴史家たちが、皆既日食(太陽全体が隠れる日食)だけを調べていたため、ヨシュア記の記述が日食に関するものであることを証明するのに失敗したと指摘している。
「初期の歴史家たちは、その日食が金環日食(太陽の外側が隠れず、細い光輪状に見える日食)だったとは考えなかったのです。金環日食の場合、月は太陽の真向かいを通りますが、太陽を完全に覆うには距離があり過ぎます。それによって、あの特徴的な『炎の輪』のような外観になるわけです。古代社会では、同じ言葉が皆既日食金環日食の両方に使われていたのです」
ハンフリーズ氏によると、地球の自転時間の変化なども考慮して計算した場合、紀元前1500年〜1050年の間にカナンから見える金環日食は、紀元前1207年10月30日午後に発生したものが唯一だという。
計算が正しい場合、この金環日食が記録に残る最古の日食となり、またエジプトのラムセス大王(ラムセス2世)とその息子メルエンプタハの治世を、1年以内の誤差で特定することが可能になる。
これに先立ち、イスラエルの研究チームは今年1月、ヨシュア記の太陽静止の記述が日食に関するものであることを示す論文を発表していた(リンク・英語)。この論文によると、ヨシュア記で「静止する」の意味で訳されている「ドム」という語が、実際には「暗くなる」ことを意味しているという。これは日食の特徴にまさに合致する。
一方、エルサレムの「園の墓」(キリストが十字架刑後に埋葬されたと考えられている場所の1つ)の責任者である英国人引退牧師のスティーブン・ブリッジ氏は、ヨシュアの戦いやイエスの十字架刑で起きた3時間の暗闇のような聖書の記述は、実際には日食について記述したものではない可能性があると話す。ブリッジ氏は、米本土で皆既日食が観測された今年8月、米キリスト教テレビ局CBN(英語)に次のように語っている。
「その暗闇が何であろうと、それは日食ではなかったのです。それが何であったか、また、それが何を意味したかについての説明はありませんが、その場にいた人々は、何か特別なことが起きているという深淵な感覚にさせられたはずです。そしてそれは、本当に特別な事だったのです」

史跡では、ありませんが、ヨシュアの年代がわかるのが興味深いですね。

http://www.christiantoday.co.jp/articles/24700/20171101/joshua-sun-stand-still-solar-eclipse-cambridge-university.htm

吉野山、竹林院に思う

敬愛する師は、1961年1月吉野山竹林院で新年聖会をされました。

仕事で近くに来たので、竹林院に寄りました。台風による崩落で昨日まで通行止めだった山道を抜けると、古い山門が吉野山の尾根にあります。寺の宿坊として、250年の歴史のある大きな宿です。1961年当時のことを女将に聞きましたが、そんな前のことは...とわからないようです。

ここで敬愛する師は、熱弁に声を嗄らして「積極的信仰生活について」語られたそうです。

50年以上前に、すでに師が「積極的信仰生活」を語っていたとすると、とんでもなく先進的な講義だったなぁと感服します。道中、その講義の録音を聴きながら、当時の師の熱い情動を感じました。〜以下講義より〜

「キリストの霊が満ち満ちている。恵みに恵みを加えながら、これを日々味わいながら生きるのを信仰生活という。....霊的信仰者の特徴は、満ち満ちている中に生きるということである。財産が欠乏し、ガツガツして、カサカサして、心が乏しいならば、それは霊的信仰者、キリストの民の特徴ではない。キリストの民の特徴は、豊かなるものである。エペソ書をお読みになれば、お分かりになる。エクレシアというものは、満ち満ちている者たちがおるところである。そういう教会を作らなければ、看板が教会でも教会でない。キリストのからだと言いながら、それは死んだからだである。キリストのからだと言いながら、聖霊の貧血を起こした教会で良いだろうか。聖霊の蒸発したような無教会主義がなんになるだろうか。もう一度、神のキリストの満ち満てるものの中で生きるようなエクレシア作りをしたいのであります。このエクレシアは、超教派的なものでありまして、幕屋と言っても、堕落しましたら、もうエクレシアではございません。

とにかく、今年は、満ち満ちて恵みに恵みを増し加えられる信仰生活を送ろうではありませんか。」〜師の講義抜粋f:id:AdonaiQuoVadis:20171102232821j:plain

吉野山  竹林院  

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師は、他宗教の最も暗い所へ光を投ずるがために、神社仏閣を聖会の会場に使いました。その宣教姿勢は、ぜひ見習うべきところです。キリストはシーク教徒のサンダーシングにも、仏教徒にも、イスラム教徒にも現れ回心を導きたもうた。この世の常識に縛られているようじゃキリストの信仰は理解できません。天の常識で実行することですね。

4次元の考え実行点検表

祈りのために、チョー・ヨンギ師の「 4次元の人」から抜粋しました。少々付け加えましたが、シェアさせてください。

祈りの中で次のことを意識して祈ると、主の奇跡を見出すでしょう。

1.神の方程式で考えましょう

根拠のない楽天主義は、人間的な考え方です。聖書のみ言葉の黙想を通して、神の考えに近づいて下さい。神と会話を交わしながら自分の考えを点検、省察、悔い改めた後、変えてください。

 2.考えを肯定的なプログラムに変えましょう

どんな問題に直面しても、否定的な考えから肯定的な考えへと変えてください。死に打ち勝たれたイエス様のように、あなたも絶望に打ち勝つことができます。

3.考えの否定的体質を把握し、治めましょう

人間の堕落により、人間の考えにはもともと否定的な要素がいっぱいになっています。怒り、絶望、不安などを取り除かなければ、次から次へと大きくなります。

4.いつも5つの福音と3つの祝福を考えましょう

あなたはすでに祝福された人です。豊かであると言う意識を持つことを願います。あなたの考えの倉に、福音と祝福の喜びを入れてください。

①私は赦されて義とされた②私は聖く、聖霊に満たされた③私は病を癒された④私は呪いから解放された⑤私は永遠の命と祝福を楽しむ

❶霊に幸いを得ているように、❷すべての点でも幸いを得、❸また健康である! 

(1)神様を黙想しながら1日の日課を始めた。

1日の日課を始める前に、御言葉の黙想(   創世記17:1 など  )節、祈りの時間(        )時間(       )分を持ってください。

(2)今日私が直面した課題について否定的な面より肯定的な面を考えた。

自分の課題について肯定的な要素(健康)、(祝福)、(明るい未来)、(聖霊の満たし)、(        )があるか考えてみてください。

(3)今日私の思いの中で否定的な要素(不安、怒りなど)を意識して祈った。

自分の思いの中で否定的な要素、不安、怒り等があれば、消えるように祈ってください。解決を祈るのです。

(4) 今日自分のことを救われて祝福された者だと思った。

「私 (   なまえ    ) は神の子ども」だと十回以上告白してください。

*「見渡しの法則」

ただ十字架だけを見渡して祈れば癒されるはずです。十字架を通してその姿を見てください。完全に癒された姿を喜んでください。その姿を思い描きながら、毎日祈ってください。癒しだけでなく、祝福も十字架を通してそのイメージを見て祈っていきましょう。

世人が怪しむくらいの奇跡と祝福が起こるのが、霊の人です。すべての良きことが、イエス様の中にある!

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※今夕の御臨在  ~2017.10.31撮影  4次元が見えたのかなぁ?

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 民数記23章 20節
「祝福せよとの命をわたしはうけた、すでに神が祝福されたものを、わたしは変えることができない。」

体験の伴う救い3 〜上にあるものを求めよ

1こういうわけで、もしあなたがたがキリストと共に復活させられたのなら、❶上にあるものを求めなさい.そこにはキリストがいて、の右に座しておられます
2 あなたがたの思いを、地にあるものにではなく、❶上にあるものに置きなさい
3 なぜなら、あなたがたは死んだのであり、あなたがたの❷命は、キリストと共にの中に隠されているからです。コロサイ3:1-3(回復訳)

もう、そのまんまです。

コロサイ人への手紙3章のこの言葉は、まさに我々の生きるべき姿勢を示すものです。「❶上にあるものを求め、我々の思いを、地にあるものにではなく、我々の❶頭上の天国に置きなさい」と言うのです。

私は、かつて示されるままに、自らの❷心臓を天国に預けてしまいました(マタイ6:21)。それは「キリストとともに葬られ、その❷命がキリストとともに❸の中に隠されている」状態です。❶上のことを思い、❶上にあるものを求め、天国のイメージの中で生活する時、まさにこの世の中に何一つ恐れるものはないのです。そして、Ⅰコリント2:15 「しかし❹霊の人は、すべての事柄を識別しますが、彼自身は❺だれにも識別されません。」(回復訳)の意味が開かれます。霊の人は❺だれにも識別されません。この世の人間の事柄から、❸隠されてしまったのですから。そしてこの世に束縛される事はなくなってきます。我らの望みは天にあり、我らの喜びは天にあり、我らの宝は天にあります。エス キリストと共にの世界に入り、ご臨在の中に❸隠されているのです(地上天)。この生きながら味わう天国の救いの喜びを奪うものはありません。

❹霊の人は、真理を知ります。あなたがたの思いを、地にあるものにではなく、❶上にあるものに置くからです。聖霊により生きる❹霊の人は、すべての事柄を識別し、知ることができ、彼自身はこの世の❺だれにも識別されません。「キリストとともに葬られ、その❷命がキリストとともに❸神の中に隠されて」おり、天国(神の支配)の中に住んでいるからです。真理の御霊は、自由を与えてくれます。もはやこの世の悩み、苦痛、束縛はありません。真の❶自由の世界に身を置いたからです。真理(キリスト)は、あなたがたに❹すべての事柄を教え、この世から自由にしたのです。誰もが体験してほしい救いなのです。大切な体験の伴う救いです。

この世は十字架にかけられたのです。ハレルヤ!

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 http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2017/09/15/014510