神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

🎵Shout to the Lord 〜臨在を呼ぶ讃美65

https://youtu.be/tk5yLJbQCbI

 

上がる上がる上がる。東京駅のイエスが見えます。夜の祈りの中で、トマスの福音書42を示しているのでしょうか。

「彼とおまえは、何も違わない。わたしの目からは、同じだ。何も持ってはいない。」「この世は橋だ。渡ってしまえば、何も持ってくることはできない。朽ちる紙くずに価値はない。彼岸に立つときは、彼もおまえも同じなのだ。」「その時、わたしはおまえたちの何を見ると思う?」

https://youtu.be/ueEqoupddmc

トマスの福音書42① 〜通り過ぎる者になれ

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継続してトマスの福音書を解説し、意訳しています。

42節前半

*Said-JS42 this: come-into-being as-you(pl)-pass-away.

42前半直訳

JS42 イエスはこう言った:あなたたちは、❶通り過ぎるような存在になりなさい。

 

トマス 42節のキーワードは、❶「 通り過ぎる」です。これは、共観福音書の中に出てこない言葉です。しかし、コプト語❶παραγειν(通り過ぎる)は、ユダヤ人にとって大切な出エジプトのפָּ֠סַח  ( pass over「❷過ぎ越し」)を連想させる語です。

❷過ぎ越しとは、出エジプト記にある言葉で、初子の死という10番目の災がエジプト人に臨みましたが、その災は入口に子羊の血を塗ったイスラエルの民の❸家を❶通り過ぎたことに由来します。このことを記念した祭が❷過ぎ越しの祭です。また、ほどなくイスラエルの民は、❸住んでいた家を捨ててエジプトを脱出したのです。エジプトは、食物や生活用品にあふれた「この世」を象徴します。❷過ぎ越しpass overとは、まさに災を❶過ぎ越し、生活するには便利なエジプトの安住の❸棲み家を捨てて、出エジプトすること=この世からの脱出を暗示する言葉なのでしょう。

この後、イスラエルの民は、荒野で40年間彷徨う仮庵生活を送ったのです。

出エジプト記‬ ‭12章7〜13節

7その血を取り、小羊を食する❸家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。******

12その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。

13その血はあなたがたのおる❸家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を❷過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。‭(口語訳‬‬)

 

また、新約聖書学者でグノーシス主義研究者の荒井献 氏は、トマスによる福音書のこの箇所で、北インドの町ファテプル・シークリー(Fatehpur Sikri)の城門アーチに刻まれた刻文を紹介しています。

「マリアの息子、イサ(イエス)は言った:『この世は橋である。/❶渡って行きなさい。/しかしそこに/❸棲家を建ててはならない』。」が紹介されています。

"Isa (Jesus), son of Mary said: 'The world is a Bridge, pass over it, but build no houses upon it."

 

私訳ですが、「世は橋であり、それを❶通り過ぎよ、しかし、その上に❸家を建ててはならない」とあります。この言葉は、トマスのように初期の宣教をした者たちが伝えた主イエスの言葉なのでしょうか。この世の人生は、橋を❶通り過ぎるようなもので、そこに❸棲み家を建ててはならないということでしょう。主イエスもマタイ伝で「人の子には、❸枕するところがない」(マタイ8:20)と言っていました。

しかし、このインドの刻文には、続きがありますので、紹介します。

"He who hopes for a day may hope for eternity, but the World endures but an hour. Spend it in prayer for the rest is unseen."

「一日だけを望む者は、永遠を望むかもしれない。しかし、世界は一時間だけ耐えられる。祈りの中でその時を過ごせ。世(橋)の残りは目に見えないからだ。」

これは、「この世では、一日一日を望んで生きる者は、永遠の時をも期待するかもしれないが、この世には一時間(ほんの少しの時間)しか残されていない。その一時間を祈りの中で過ごしなさい。人生(橋)の残りは目には見えないからだ」と言っているのでしょうか。

以上を参考に、42節を意訳してみます。

42前半意訳

JS42 イエスはこう言った「あなたたちは、この世では(橋を)❶通り過ぎるような存在になりなさい。(この世に❸安住の棲み家を建ててはならない。この世にはほんの少しの時間しかない。その一時間を祈りの中で過ごしなさい。人生の残り時間は見えないからだ)。」

祈りの霊訓 〜敬愛する師30

敬愛する師の祈りについてのお話は、時を超え読むたびにその深さが伝わってきます。私の祈りもこうありたい!以下紹介させてください。

 

霊訓 ―ある天人の霊告―
手島 郁郎

われは世の光なり、我に従う者は暗き中を歩まず、生命の光を得べし。
ヨハネ伝8章12節)
 

 「光のある間、光に歩めよ」と、キリストは言い給うた。いま、光はまばゆい真夏の空のように、痛いほど燦々と照り輝いているのに、人間の心はいまだに無明の闇に嘆き苦しんでいる。何という人間の暗愚。何をこうも錯覚したのであろう。まばゆい白昼の光の中を、杖を頼りに手探る盲人の歩き方がかわいそうでならないように、それ以上に気の毒なのは霊盲というものである。地球上には退化した霊盲族人類が、うようよも棲んでいるのだから、天界ではこの衆愚の処置に思案の為体(ていたらく)だ。まっすぐ歩けばよいのに、わざと廻り道して遠くに行く。ちょっと気を抜いて安心していると、もうとんでもない方向に歩いて行く。そして互いにぶつかって、衝突、喧嘩、乱暴、憎悪し合っている。全く利己的な動物だ。自分を中心にしか、何も考えることができぬ動物であるとは! 自分が悪いのも気づかずに、自分の都合だけで他を悪口するんだから、困った悪童だ。

 ――どうしたら、人類を善導できるんですか?

 善導じゃない。人間改造だ!

 改造と言うと驚くだろうが、人間がみな知ろうと知るまいと、持っている信仰心、この退蔵せる信仰心を刺激してやれば何でもない。おどろくべく霊眼がひらけてくるものだ。信仰心といっても、淫祠邪教を信じたり、既成の仏教哲理やキリスト教教理を信じたりすることじゃない。まず人間が自らの暗愚を知って、人間の仮面をかなぐり棄てることだ!

 「われ審判(さばき)のためにこの世に来たれり。見えぬ人は見え、見ゆる人は盲目(めしい)とならんためなり」(ヨハネ伝9章39節)と、主が言い給うた通りだ。肉体の五感に幽閉されている霊魂がその仮面をかなぐり捨てさえすれば、自分のまわりが、どんなに霊光まばゆくあるかがわかるものだ。目からうろこのようなものが取れると、天上の友らが、呼びさえすればあなたたちを助けようと待ちかまえているのに気がつくだろう。手を出しさえすれば、神の国は届くところにあるものだ、と経験できるのだが……。

 ――どうしたら、容易に神の国に気づくでしょうか?

 信仰の目的は、人間が「内なる光」を発見することにある。人間の尊貴(とうと)さはこれにある。「身の燈火(ともしび)は一つの目なり。このゆえに、汝の目が純一ならば、全身、光被されるであろう」(マタイ伝6章22節 私訳)。まず眉間に一つの目が見ひらかれて、見えざる世界を意識し出すことである。この意識は、前額から松果腺(しょうかせん)を通じて、間脳に感応する仕掛けになっている。祈るときに、まず額に何か熱く光るような重圧感があれば、もう良い事が始まったのだ。地上にも、少数だが目覚めた哨人(みはり)も出初めている。

無辺風月 眼中眼 不尽乾坤 燈外燈
柳暗花明 十万戸 敲門処々 有人膺
 

 「もし汝の内の光、暗闇ならば、その暗黒、いかばかりぞや」(マタイ伝6章23節)。信仰とは、内なる光の発見である。信仰の目さえ開けたら、魂は天界から強い印象を受ける。この眩いばかりの宇宙光=キリストの霊光下に、見るもの、聞くもの、全く想像に絶して、明確な認識と強烈な印象を受けるものだ。見えなかったものがどんどん見えだし、見えていたはずのものが、主の光のために、全然、存在を消してしまう。見えていたと思ったものは、暗い影でしかなかったのだ。「光は闇を駆逐する」。暗黒は非存在なのだ。非存在を存在する、と意識していたことが、とんでもない錯覚だよ。

 キリストとは「義の太陽」だ(マラキ書4章2節)。キリストの霊光のまばゆさよ。この霊光を借りさえしたら、どんな事柄でも見通しだ。どんな問題だって、もう結論が浮かび上がってくる。どんな事件だって、その真相が直覚できるものだ。レントゲン光線が肉体の内部、肺の病巣をさらけ出して見せるように。

 ――人生の難関にぶつかったら、どうしたら良いですか?

 霊的な人間は、まず第一に全ての意識の仕方が違うものだよ。一般人は、考えずに事をやる。官能的な衝動のままに事をなす。やり手に限って馬車馬のようだ。だが教養のあるインテリは、考えてから事を始める。人類がここまで進歩して来たのも、この知性で思考するお蔭である。理性は抽象する力だ。抽象によって原理法則を組み立てる。

 だがこの頃のインテリとか文化人という類(たぐい)は、考えても分からぬことまで考えたり、思い煩ったり、独断的に抽象したりするので、分かったつもりでいても何が何やら分からなくなって、神経衰弱的焦燥に身を焦がしている。神経症(ノイローゼ)――この流行病の恐ろしさは、流感(インフルエンザ)やチフスよりもひどいものだが、病気にかかってその疾患に気づかぬから、なおさらに神経症とは怖いものだよ。文化人とかいう虚栄族の傲慢、その思考力の逸脱が、社会不安に拍車をかけられてかくも蔓延(まんえん)するに至ったものだ。

 だが、実を言うと、霊界の奥では悪霊どもが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)して、地上の人類に悪い波動を送って人心攪乱(こうらん)するためなんだ。これが最大原因だ。幽界が浄(しず)まって、地浄まる。

 話が脱線したが、やり手であるよりも、考え手であれよ。考え手であるよりも、祈り手であれよ。「すべからく理性による抽象の闇を脱して、霊的な実在の光に来たれ!」と、私がかつて教えたことも、この理(ことわり)だ。真の祈りとは、実在の霊光下に魂が覚知することなのだ。

 自分の頭脳でまず考えるくせを止めよ。霊魂がまず直感するくせをつけよ。性格(くせ)は改造しなければならない。祈りは思考ではなく、霊の直感の世界だ。波立つ心を鎮めて、内に潜める巨(おお)きい心の湧出するのを待て。霊は巨きい世界の全一的な直感だ。私たちの心奥には、大きな心がある。大きな視野で、高い世界が分かる心がある。高い山から見下ろすと、全てが小さく見えて、広く見渡せる。そして正しい見通しができるものだ。「祈りの山」に登って、大所高所から全てを判断してゆくことだ。祈りの山では、時間を超えて未来に遡(さかのぼ)り、空間の彼方までパノラマのように展望できるものだ。

わが魂よ 立ち上がって 我を導け。
わが魂こそ わが主人。魂よ 目覚めよ!
理性や感覚が、仮面かぶって
主人顔で地上に道化役をやっているとき
私は悲しいピエロだ。
いつまでも端役(はしたやく)は 御免だ!
わが魂よ 高く上がれ!
わが魂は 肉体を脱して
天界に高揚、天堂に推参する。
いつも 祈りの後には
天上の珍菓 霊のマナを土産に
わが心はいきづき わが肉体は躍る。
神秘な知恵が 私を聡明にする。
 

<私の決意>

 もう私は、自力でやるまい。自分で考えまい。キリストは真理の霊だ(ヨハネ伝14章17節)。キリストという大きな知恵が考えるままに、思い切り積極的に行動しよう。大宇宙のロゴス、キリスト意識を殺して、知らん顔の半兵衛でいるのが、現代キリスト教である。私は敢えて、彼らが十字架に抹殺しているキリストこそ、神の知恵、神の能力である、と使徒パウロと共に叫ぶのだ。

 キリストは死に給わず。見よ、生きて世々限りなく実在する神霊であることを、私は実証しなければならない。私の義務はここにあり、幕屋人の使命は、これにある。われらの“内なるキリスト”こそ、われらに無限の知恵、無限の力である。友よ、キリストをして全てをなさしめよ。キリストの霊に聴いて、魂に全生活の責任を持たしめよ。(1957年)〜「祈りと瞑想」より〜

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2016/02/26/005157

トマスの福音書を探る価値

    私は、新約の四福音書を読んでいるときが、一番心安らぎます。主イエスの発したことばこそ、隔ての幕を割き、天の視点を開いてくださいます。

    さて、質問がありましたので、ここでの記事によく扱う"トマスによる福音書"について説明します。

"トマスによる福音書"は、1945年にエジプトで見つかった『ナグ・ハマディ写本』群に含まれていた文書で、114の文からなるイエスの語録集です。本文中に使徒トマスによって書き記されたとあるので、この名があります。イエスの語録集として古くから注目され、これまで原始キリスト教の教父たちの証言により、その存在は知られていましたが、その後退けられたため、今世紀の写本発見までは、その内容はほとんど不明だったのです。その文章の中には共観福音書との共通点も多く見受けられると同時に、四福音書には見られない難解な文章も多く、節ごとの繋がりもないので、福音書としての採用を敬遠されたと思いがちですが、そもそも長い間原文が見つからず、1945年に発見されたものですので、中世の編纂対象にはならなかったわけです。

    四福音書作成の元になる主の言葉のメモのような文章は、「Q資料」と呼ばれています。その第一候補がトマスによる福音書です。主の語られたことだけを記録した初期の「Q資料(語録)」(聖書の骨格)と呼ばれるものに近いといわれています。現代の言語学者や聖書学者がこの語録を訳したものを読んでもピンとこないのですが、実際に翻訳すると聖書の中のレーマも共通しており、大変な宝が隠されていると感じています。まして、ナグ・ハマディ文書の中に発見され、トマスが主の言葉を備忘録として書き留めたものであるなら、解読する価値があると思います。

    それを聖書と比べながら探るのは、価値のあることだと考えています。実際、特にその隠喩を解読することで、今までになく聖書の解釈が変わってくるのは不思議です。今の日本語の聖書がいかに原文から外れた訳をしているかも少しずつわかってきました。
 この福音書に少しでも主イエスの御言葉、アグラファ(現行の新約聖書福音書には収録されていないが、その他の初期キリスト教文献で言及されているイエスの言葉が幾つかあり、これを「アグラファ」=ἀγράφα. 「書かれざるもの」と呼び、新約聖書学上、大きな意味を持つ)が含まれているならば、114節の短い言葉を解読することは価値のないことではありません。否、多くの収穫を得ることができるかもしれないと感じています。序文にある「だれでもこれらの言葉の意味に行きつくなら、彼は死を味わうことがない」とは永遠のいのちを示唆するものであり、それが本当なら驚くべき宝が隠されている可能性を示しています。その真偽については、114節の言葉の意味を解釈し体験してみれば結果として見出すことになると考えます。

サンダー・シングも以下のように言っています。

「神秘家が嘘を言っていないことは、その生き方によって確かめることができる。そこで、まず、彼の言うことに耳を傾け、次にその言葉をあなた自身が体験によって生き、確かめてみることである。

霊的事柄を、霊的経験は何一つ持たない科学者の判断に委ねることほど愚かなことはない。日食がいつ起こるかわかる科学者も、罪という日食について何一つ知らずにいるのだ。眼球にはものを見る力が備わっているが、光に照らされなければものを見ることができない。同じように知性と言う目にも、見る力は備わっているが、『義の太陽』に照らされないうちは、見ることができないのである」。

〜サンダー・シング“At the Master's Feet”『神との対話』より

今夜のご臨在 〜中秋の月光

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2018.9.24撮影

日本のお月見と仮庵の祭は、同時期に行われています。

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「われらの力なる神にむかって高らかに歌え。ヤコブの神にむかって喜びの声をあげよ。 歌をうたい、鼓を打て。良い音の琴と立琴とをかきならせ。 新月と満月とわれらの祭の日とにラッパを吹きならせ。」
‭‭詩篇‬ ‭81:1-3‬ ‭(口語訳)