神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

☝🏾われわれの信仰とは4 〜実体を確認せよ 

 敬愛する師は、使徒と同じ奇跡力をご自分でも表わしていました。それは、わたしたちの信仰の標準でもあるのです。この第一級の信仰を熱心に尋ね求める者たちに報いてくださる主イエスに近づきたい。是非に、このような信仰にわたしも与りたいのです。

    実体がない信仰は、人間の頭が作り出した信念でして、幻覚(イリュージョン)、迷信と卑しめられるものだと敬愛する師は語っています。

〜敬愛する師の話〜

信仰とは、確かな実体を確認し、根底を実証することなのです。

一生の間、信じ抜いたが、ついにその信ずるところを実現しなかったというような根底のない信仰なら、それは単なる人間の頭が作り出した信念でして、幻覚(イリュージョン)、迷信と卑しめられても当然であります。ヘブル書には有名な信仰の定義があります。

「信仰とは、望んでいることの確信(ὑπόστασις 実体、本質、基盤)であり、見えないものの実証(ἔλεγχος  証明)である。…信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉で造られたこと、従って、見えるものは現れていないものからできていることを、悟るのである」(ヘブル書11:1〜3)。

全てこの見える世界(現象界)というものが、見えないものから成り立っている、と言うのであります。

 例えばこの物質界というものが、原子からできていることは誰でも知っていますが、その原子は、電子、陽子、中性子等の素粒子から成り立っている。素粒子はみなエネルギーが凝り固まってできたものです。エネルギーというものは目に見えません。その見えないものが、見える物質界一切を作り上げている。すると、見える物質界世界の根底には、それを生み出している、もっと確実な、見えない実在があるということがわかります。同様に、信仰と言うものは、その確実な根底に基礎を置いている心理経験です。

今日、科学の世界は確実だと言うけれども、それは単に表面づらの世界の確実さなのであって、もっと宇宙的な根底の確かさー霊的な実在ーに比べたら、及ぶべくもないんです。

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 今までは、よく「科学は宗教と衝突する」などと言われてきました。しかし実際、科学が衝突するのが、独断的なドグマや既成の祭儀的宗教に対してでして、霊的宗教そのものにではありません。ある教派が、人間の勝手な独断で、「我は何々を信ず」といった信仰箇条や教理を聖書抜きにして作り出しております。科学は事実を問題にしますから、当然こんな観念だけの抽象的産物と衝突してきます。しかし霊的な信仰においては、科学と同様に神秘な事実を経験し、宇宙の根底的実在に触れることを中心問題としているので、両者は心理の両面の探求となります。聖書は人間の事実に根差す歴史的記録です。

 真の信仰なら科学そのものを可能にするはずです。科学以前の根底的な世界に基礎を置いてものを考え、その中に魂を浸して感じていることなのですから、信仰は科学と衝突したりしません。科学ばかりでない、事業の経営や家庭の経営にしろ、すべての営みの根底をなしている世界を目ざとく信仰は知っているのです。

 昨年、米国の宇宙ロケットの開発の推進本部長のジョンソン博士は、私に、ゼネラルエレクトリック社では、今では200〜300人の研究員が異言を語りながらエクスタシー状態で研究を進めていると語りました。従来の知識だけではどうしても壁にぶつかってしまうが、異言状態で研究していると、どんどん新しいアイデアが霊感されて、驚くべき進歩があると言う。科学と矛盾しないどころか、科学の最先端の研究を指導する力、これこそ霊的信仰なのであります。神秘の世界は、確実な事実なのです。経験しない人には、空想かもしれないが、私たちには事実なのです。

 既成のキリスト教会の神学が非常に警戒するのは、霊的な神秘と宗教哲学に対してであります。彼らの神学は薄弱な根底に立つドグマですから、神秘思想と宗教哲学を警戒し、恐怖します。だが、確信は意識のヒトラハブート(光耀)にあります。〜以上〜

 真の信仰は、最先端科学と共存し、その裏づけを得るばかりでなく、科学の最先端の研究に霊智を与え、アポロ計画をはじめとする米国の宇宙開発計画にも良い影響を与えていたとは、驚きです。ましてや、50年も前に、敬愛する師が「素粒子はみなエネルギーが凝り固まってできたものです。エネルギーという見えないものが、見える物質界一切を作り上げている」とヘブル11:1の信仰の奥義を語っているとは、、、やはり預言的啓示なくしては、理解できない解き明かしです。大変勉強になります。

この経済的にも人的にも疲弊してきた日本を立て直すのは、聖霊によるインスピレーション(霊智)に導かれるキリスト者なのでしょう。そこには、実体を伴う力ある信仰が表わされるのです。

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2020.9.2撮影

9号の後に大型の台風10号が接近しています。この秋の複数の台風が北朝鮮に変化をもたらすのでしょうか。

 

異端呼ばわりする者の正当性?

 今のキリスト教界を見ますと、ネット上で「あの宗派はあぶないだとか、あそこは異端だ、カルトだ」とか、他宗派や教役者を批判する者がいるようです。しかし、異端審問さながらの大上段に構えた宗派批判を見ると、そんな批判をしている立派な?方の教会を調べてみたくなります。さぞや使徒行伝さながらの力ある御わざが表れ、癒しや死人の復活の奇跡が続出しているのだと思いましたが?カルチャースクールのようでした。

 わたしの経験から、「あそこは危ないから、関わらない方が良い」などと教役者が語り、他を批判したりするのは、概して自分の教会に力ある奇跡や聖霊の力ある御働きがないところで見られるということです。

 本当に力ある福音を現わす者は、あれこれ批判しません。自分の教会にはない力に恐れを抱き、中には、自分の都合の悪い話しを部下にさせたりする情けない輩もいるようです。多くは、不安からの異端審問の言動だと考えています。

 あそこは「あぶない」とか「異端だ」として怖がるのは、批判する者や自らの群れに力がない証拠だと思います。あそこには、自分にない熱さや力ある神のわざがある。だから怖がり心配するのです。他の群れが、まちがった教えだと思うなら、恐れずにその方たちのところへ乗り込んで真理を示して方向転換させるべきです。土俵の外からネットで異端審問する前に、行ってあなたの信仰する聖書にある神の力ある御わざを示せば良い。聖書にあるような奇跡を異端者の前で表せば良い。

 そのくらいの力ある御国の御わざをありありと示せないのでは、それこそご自身こそが異端ではないかと思います。自省されるべきであります。

 わたし自身は、幼い頃から日基の幼稚園へ通い、学生時代に米国南部バプテスト派の宣教師を介して受洗、大学時代は単立のホーリネス、20代には原始福音にもお世話になり、バプテスト派の母教会が移転してからは、今はペンテコステ派の教会へ通ったり、ボランティア関係などで韓国系教会、カトリックや他のプロテスタントにも関わり、セブンスデー・アドベンチスト、アッセンブリーにお邪魔したりもします。

 それぞれのエクレシアには、「この点が足りないとか、ここでがんばってほしい」とかいうことはあります。しかし、それぞれに「素晴らしい!なるほどなあ。ここは見習わないと」と思うことがたくさんあります。
 実際に足を運んで、何ヶ月かでもいいからその群れに参加していると、自分には真似ができないような、頭の下がる努力や熱心さがそれぞれにあるのです。

 わたしも、カトリックのエキュメニカル運動は、おかしいなあと思いますが、敬虔で真摯なカトリック信者たちと接して自分の不足を思い知らされますし、カトリック自体を批判したりはしません。マザー・テレサは天に召されましたが、マザー・テレサは一人でない。カトリックには、たくさんのマザーが同じように貧しく病んでいる人々のために奉仕を続けているのです。

 現代の「アレは異端だ、アレは危ない」と批判する者たちが、私生活でマザーと同じような奉仕をされているのでしょうか?カトリックの修道士に話しを聞いたことがあるのでしょうか?
 キリストの御わざを大胆に表わした敬愛する手島郁郎師も、既存のプロテスタント教会からは、異端視されることが多い存在でした。しかし、師は「神の国は、ことばではなく力にあるのです」(1コリント4:20)という御言葉を地で行く生き方をしていました。

 イエスに躓いたバプテスマのヨハネが「来るべき方はあなたですか?」と弟子を遣わしたとき、イエスは何と答えたか。教理を伝えたのか。宗派の教義を伝えたのでしょうか?

いいや、御国の福音の事実を見よと言ったのです。マタイ11:5では、「 盲人は見え、足なえは歩き、 らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている!」あなたの見たとおりだ!と言っています。これこそが主ご自身を証しされたときの回答です。バプテスマのヨハネに伝えたご自身の証しは、実際に起きている力ある奇跡と神の権威の現われそのものでした。
 
 実際に不思議な愛の奇跡を行う主イエスご自身も、その力あるわざのゆえにユダヤの祭司たちに疎まれ、十字架刑で殺されたのでした。
 もし、当時と同じようなことを、力ずくでないとしても、断罪しながら土俵の外であれこれ言うなら、異端裁判と同じではないでしょうか。そんなことをしている情けないやからこそ、主の御前には異端であるのでしょう。
 世の終わりには、すべてのキリスト教の異端と呼ばれる者たちも、「神の国の力ある顕現」を目の当たりにして、真のキリストの教えに気づき、立ち返ることでしょう。今は、確かに偽物をつかまされているかもしれない。しかし、本物が来れば、その絶大なる価値に「すべての財産をはたいて宝の隠された畑を買う」ように力ある御国の福音に戻ってくるのです。その群れ自体が、教理や余計なこだわりを捨て、御国の真の福音「力ある御国の顕現」に心酔し、神によろこばれる霊性に修正され、石でなく心に自由の律法を刻まれる。これこそがイエスの説かれた力ある御国の福音です。
 
 ことばではない。教義やドグマ(教理)でもない。現実に「神の国の力」を現せなければ、ことば遊びでしかない。「お前が見てる通りをヨハネに伝えろ!」とヨハネの弟子に言える。これが神の国の力ある福音です。
 この力ある御国の福音が体験「証し=証言」として、地の果てにまで、イスラム教、仏教、ヒンズー教、あらゆる宗教宗派、キリスト教の異端と呼ばれる群れの中にまで伝えられて、世の終わりが来るのです。
 あなたがこのような他の宗教・宗派に怖れを抱くなら、あなたは本物ではない。彼らをニセものだというなら、それに勝る圧倒的な神の力を体現して、どうどうと乗り込んでいけばいい。自分を救い主と言うような教祖の前で圧倒的な神の国の力を現し、御国の福音を示せばいい。エリヤのように天から火を呼び起こせばいい。
 われわれの周りで「盲人が見え、足萎えが歩き、らい病人がきよまり、耳しいが聞こえ、死人が生き返り、貧しい人々が福音を聞かされている」のでなければ、われわれはまだ主イエスのレベルの御国の福音に達していないのです。小さな教義やドグマにこだわり、口先だけの教えで、他を批判しているなら、それこそエリヤに敵対した異端者やイエスを十字架につけた祭司たちと同じです。

 バプテスマのヨハネイエスが答えたこの「御国の福音」のレベルでなければ本物ではないのです。「盲人が見え....死人が甦る」御国の福音こそが、本物の福音と異端(偽物)を見分ける主イエスの回答なのです。
 議論やことば遊びではない。「神の国はことばではなく力にあり」。聖霊を受けて御国の力と天の「啓示」が与えられれば、この世の「教理」などは吹っ飛んでしまいます。天国を垣間見れば、すべてこの目で真実を見ることができるのです。

 「 しかし、聖霊があなたがたの上に降るとき、あなたがたは力を受けて、エルサレムと全ユダヤサマリア、また地の果てに至るまで、わたしの❶証人となるであろう」。使徒行伝1:8(原文校訂口語訳)
❶証人とは、事実を証明する人。自己が経験により認識・知覚した事実を述べる人のことです。

 われわれは、異教徒、異端とよばれる群れをも「御国の福音」へ引き戻し、引き上げていく「力ある」神の国の体現者、事実を証明する者となるべきです。そんな福音の証人になれないで、他を批判して、十字軍さながらに正義をかざし殺戮をする者たちに何の正当性があるのでしょうか。

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十字軍についてのイスラムの碑

 

今夕のご臨在 〜見守られる主

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2020.8.29撮影

「わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、 わたしの悟りに耳をかたむけよ。」
‭‭箴言‬ ‭5:1‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/pro.5.1.口語訳

「人の道は主の目の前にあり、 主はすべて、その行いを見守られる。」
‭‭箴言‬ ‭5:21‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/pro.5.21.口語訳

 

☝🏾われわれの信仰とは3 〜πίστις(ピスティス) の大小

信仰には、❶主イエスの開かれた救いへ至る信仰πίστις(ピスティス) と、救い主に依り頼み近接する❷個々の信仰πίστις(ピスティス) の二つがあることを話してきました。

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/01/13/111415

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2019/11/02/023100

ローマ3:22

全て信ずる(❷イエス・キリストに近づく)者に対して❶イエス・キリストからの信仰を通した  神のその義は、今、差別のないものです。(私訳)

われわれは、❶主イエスの信仰により開かれた神の義に乗っかって、やっと天国を垣間見れたわけですが、果たしてそれが救いのゴールなのでしょうか?パウロは、第一コリント9章で次のように語っています。

「24あなたがたは知らないのですか? 競技場で走る者はみな走りますが、賞を受けるのはただ一人です.あなたがたは賞を得るために、このように走りなさい。
25競争する者はみな、すべての事で節制します.彼らは朽ちる冠を受けるためにそうしますが、わたしたちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
26こういうわけで、わたしはこのように走ります.はっきりした目標のない走り方ではありません.このように拳闘します.空を打つような拳闘ではありません.

27わたしは自分の肉体を打ちたたき、それを自分の奴隷としています.それは、人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格することがないためです。」Ⅰコリント9:24-27(回復訳)

パウロでさえ、自分の肉体を打ちたたき目標に向け努力していると言っています。個々に任された責任があるようです。

同様に、個々の信仰も大小あると主イエスは言っています。

マタイ伝8章には、信仰の大小についての記事があります。

「8しかし、その百人隊長は答えて言った、「主よ、あなたをわたしの屋根の下にお入れするのに、わたしはふさわしくありません.ただ一言お言を下さい.そうすれば、わたしのしもべはいやされます。
9というのは、わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒たちがいるからです。そこで、わたしがこの者に『行け』と言えば、彼は行き、あの者に『来い』と言えば、彼は来ますし、わたしの奴隷に『これをせよ』と言えば、彼はそれを行なうのです」。
10イエスはこれを聞くと、驚いて、従っている者たちに言われた、「まことに、わたしはあなたがたに言う.イスラエルのうちのだれにも、わたしはこれほど❸大きな信仰を見たことがない

11しかし、わたしはあなたがたに言う.多くの者が東からも西からも来て、天の王国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に食卓に着く.

12しかし、❹王国の子たちは外の暗やみに放り出される。そこでは、泣き叫んだり歯がみしたりするであろう」。」マタイ8:8-12(回復訳)

8章12節 フットノート❹
王国の子たちとは、良い種である救われたユダヤ人のことです(13:38)。しかし狭い門を入り、細い道を歩く強い信仰がない者たちは(7:13―14)、王国の出現の時、宴席にあずかることができません(ルカ13:24―30)。

百人隊長(百卒長)は、中風の下僕のために主イエスに癒しを乞いに来ました。「わたしが行って、彼をいやしてあげよう」との主の申し出に、「ただ一言お言を下さい.そうすれば、わたしのしもべはいやされます。」と語り、主イエスが病いに対して権威のある方だと確信していました。
主は「イスラエルのうちのだれにも、これほど❸大きな信仰を見たことがない」と感心されました。百人隊長の主イエスに対する理解と癒しの力への確信は、「わざわざ家まで来なくても、一言だけ頂けるなら、治ります」という❸大きな信仰だったわけです。イエス・キリストの救いの力がどれだけ大きなものかを、権威というキーワードで理解し、主のピスティスに乗っかることができていたのです。

こんなイエスに信頼する信仰の大きな異邦人の百人隊長を見て、信仰の小さな「❹王国の子たちは外の暗やみに放り出されるぞ。泣き叫んだり歯がみしたりするであろうぞ」とまで、言わしめたのです。

次に、❺信仰の小さい者について、マタイ伝の同じ8章に記事があります。

「24すると見よ、大嵐が海に起こって、その舟は波に覆われた.ところが、イエスは眠っておられた。
25そこで、彼らは近づき、彼を起こして言った、「主よ、お救いください.わたしたちは滅びそうです!」
26イエスは彼らに言われた、「❺信仰の小さい者よ、なぜこわがるのか?」。そして立ち上がって、風と海をしかりつけられた.すると大なぎになった。」マタイ伝8:24-26(回復訳)

大嵐に、「主よ、お救いください.わたしたちは滅びそうです」とこわがった弟子たち。畏れなき信仰を持って嵐の中で眠っていた主イエスに弟子たちは泣きつきました。救い主と一緒に船に乗っているのに、主のピスティスを信用できずに沈没を畏れていた弟子たち。そんな弟子たちを「❺信仰の小さい者よ、なぜこわがるのか?」と叱ったのです。

8章からは、個々の信仰に大小があることがわかりますね。

イエスの信仰には、遠隔での中風の癒しや、自然界の大嵐を鎮める大奇跡力がありました。百人隊長のように、まだ見ぬ前から癒しを確信し、信仰の方程式を理解し、主のピスティスに乗っかることができた者には、「❸大きな信仰だ」と褒めていたのです。一方、弟子たちのように、イエスの近くにいながら、主のピスティスに乗っかることができず、畏れに満ちた者に対しては、信仰の小さいことを叱られるのです。

百人隊長(百卒長)の記事について、敬愛する師がこのように説明しています。

以下、師の話より〜

「こんな❸大きな信仰は神の民イスラエル人の中には見たことがない」と言われる時に、私たちも今年(1967年)の信仰標語として「信仰の量り(はかり)を拡大せよ」を掲げておりますが、それはただ「大きな野心を抱く」と言う意味だけではありません。野心や願いがあるならば、その願いを成就するためにはどんな秘密があるか。それをまずお考えください。命令一下、その願いをなす何かがあるということです。

わたしは、酒井軍司令官に助けられて、戦争中、北京に再び行き、莫大な資金を銀行から貸してもらって、仕事をやりだしたのです。もし酒井閣下にお会いしていなかったならば、わたしは事業に成功しませんでした。

戦争中です。特別な人の保護が、お蔭と言うものがなかったならば、どれほど自分の計画、青写真が良くても成功しません。権威の下にある人がわたしを支持してくださったからこそ、地上の成功がありました。

さらに、地上の権威を持つ者以上のものがあります。人間が生きるか死ぬかの差し迫った問題に、どんな地上の王侯に権威があるといってもどうにもなりません。しかし、人生の重大な瀬戸際に立たされた時に、一言のもとに解決してしまう不思議な力が、宇宙の中にあるということです。こういう力を信じ、これに頼って生きることを、「❸大きな信仰」とキリストは言われたのです。わたしたちは、つまらない人間でもよい。大事なことは、わたしたちがどのような人の御恩のもとで生きるかと言うことです。

わたしは自分の守護神がキリストであることを、本当に感謝します。宇宙の主権者である天地の創り主の霊が、わたしを保護しつつあるということは感激なんです!

「信仰の量りを拡大せよ」という時に、わたしたちは、どうしたら良いのか。まずはあなたが神の世界に、神の国にすっぽり入りこまねば、神のお蔭をこうむること、神の権威の下に生きるということができません。「まず神の国と義とを求めたならば、一切は与えられる」(マタイ伝6:33 )という世界がある。

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ここで中風の下僕がいつまでも同じ状態にあるだろうと諦めてしまえば、そのままです。しかし、人間の心は偉いものであって、神の霊を呼び覚まします。すると、たちまちに癒される。このような信仰を持っている者をイエスはほめられたが、百卒長は、ユダヤ教徒でもイエスの弟子でもない、異邦人で異教徒でした。しかし、神の民イスラエルの父祖となったアブラハム、イサク、ヤコブの列にも入ることのできる信仰だと言われた。これは第一級の信仰だと言う最大のほめ言葉です。

わたしたち原始福音を信じる者は、今のキリスト教に列しようとは思わない。キリストの十二使徒たちの列に加わり得る信仰を持つことが大事です。ペテロやヨハネヤコブパウロのような信仰だと言われれば、神様、それでもう充分ですね。そのような人の周りには、不思議が起こるものです。何となれば、神の霊が取り巻いているからです。

わたしたちは、こういう聖書の記事を読んで知らねばなりません。単なる人間でありながら、神の権威の下にある人間がいかに恵まれ、祝され、また人々を祝することができるかを。そして百卒長のような信仰者にならねばならない。それは何か難しいことではありません。

百卒長は、地上のイエスのみすぼらしい姿にもかかわらず、神の全権者、キリストの霊の偉大さを見抜き、その前にひざまずきました。「あなたはわたしの主です。一言だけで良いです。御言葉をください」と嘆願しました。わたしたちも自分の守護神であるところのキリストのもとにひざまずいて、お従いすることです。そのような信仰を確立した人は本当に違います。

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(❺信仰の小さい者についても、師は語っています。)

ここでキリストは「信仰の乏しいものよ」と言って、不信仰をお責めになったが、不信仰とは何か。危ない時に怖(お)じることであります。否、危なくなくともおじおじしている者には信仰はない。不信仰を現象的に言うならば何か。それは怖じる姿、恐れている姿であります。

もしわたしたちがクリスチャンと言いながら、怖じ恐れているならば、キリストが見られて同様に「なぜ、そのようにビクビクして生きているのか、❺不信仰者たち!」と言われると思います。どうか、他人ごととして聞きたくありません。

信仰が充実していたら、大胆に生きられます。ですから使徒行伝では「大胆に」とか「臆することなく」「はばかることなく」と言う言葉がたくさん使ってあります。わたしたちは聖霊に満たされるときに、ただスヤスヤと眠るだけではありません。大胆に生きられる、臆することなく生きられるということです。

〜以上、師の話より

「信仰とは2」で述べたヘブル11:6の私訳を再度見てみましょう。

信仰がなくては(近づかなくては)、神に喜ばれることはできません.というのは、神に進み出る(近づく)者は、神がおられることを信じ、彼を❻熱心に尋ね求める者たちに報いてくださる方であることを、信じるはずだからです。(私訳)

個々の信仰の大小は、どれだけ主を信頼して無畏心でおり、その権威に頼り、神の霊に取り巻かれて生きているかを問うているようです。神の世界に、神の国にすっぽり入り、主の権威のもとに、「一言だけで良いです。御言葉をください」と嘆願して事に臨むとき、直々に御言葉があれば、その通りになるのです。

聖霊降臨後のペテロやヨハネヤコブパウロのような信仰を標準として語る敬愛する師は、使徒と同じ奇跡力をご自分でも表していました。それは、わたしたちの信仰の標準でもあるのです。この第一級の信仰を❻熱心に尋ね求める者たちに主が報いてくださると確信し、このような信仰にわたしも与りたいのです。

 

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2020/06/21/025648

マタイ伝の信仰について

ὀλιγόπιστοι  6:30

τοσαύτην πίστιν 8:10

ὀλιγόπιστοι  8:26

μεγάλη πίστις·15:28

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