神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

キリスト自身を伝えよ

昨夜、私は一人で祈っておりましたら、神様は私にはっきりと告げられました、「今のキリスト教は、信仰を思想や神学のこと、教理のこととし、多くの人がキリスト教の思想や神学を伝えることが伝道だと思っている。しかし、おまえはそのようなことはするな。❶おまえはわたし自身を伝えよ」と。

もったいないと思いました。人の多い中で、キリストはなぜ私のようなものを通して現れようとしておいでになるのか、私は感激でした。高遠な宗教思想や神学的解釈を述べるとなると、私は頭が悪いし、本を読む暇もそうありません。けれども、目にこそ見えませんが、この55年間、私に伴いたもうた方を伝えることでしたら、私にもできます。私は世にある限り、今も生きて語りかけてくださるキリストだけを伝えて参ります。

ヨハネ伝15:8で「あなた方が実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」と言われています。ですから、キリストの弟子と言われるほどの人間ならば、❷イエスに結んだような不思議なカリスマ的な実が内にも外にも結ばれ、小さくともキリストの面影を宿すような人間でなければなりません。〜手島郁郎 師のことば「生命の光」2021年3月号の記事より

「❶おまえはわたし自身を伝えよ」とは、素晴らしい回答です。今、日本人に必要なのはキリスト教ではなく、キリストご自身です。

「❷イエスに結んだような不思議なカリスマ的な実が内にも外にも結ばれ、小さくともキリストの面影を宿すような人間でなければなりません。」とは、まさに自分に語られているレーマであります。感謝です。

 

サンダー・シングについて

https://www.makuya.or.jp/186-fukuin/

 

 

昨夕のご臨在 〜満開の梅

 

f:id:AdonaiQuoVadis:20210222124633j:image

2021.2.21撮影

 

「あなたは更に七日間待ち、その間は断食をしないで、 家が建てられたことのない花咲く野原に行き、野の花だけを食べなさい。肉を食べず、ぶどう酒も飲まず、ただ花だけを食べなさい。 そして絶えずいと高き方に祈りなさい。そうすれば、わたしは来て、あなたと語ろう。」」
‭‭エズラ記(ラテン語)‬ ‭9:23-25‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/2es.9.23-25.新共同訳

「わたしは天使が言ったように、アルダトと呼ばれる野原に行き、そこで花の中に座り、野原の草を食べた。わたしは満腹するまで食べた。」
‭‭エズラ記(ラテン語)‬ ‭9:26‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/2es.9.26.新共同訳

エズラは、何の花を食べたのだろう?

 

マタイ  2章23節
そしてナザレと呼ばれる町に来て、そこに住み着いた.それは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが、成就するためである。
2章23節 フットノート
預言者たち」という複数形の言葉は、これがある特定の予言ではなく、幾つかの予言(詩22:6―7のような)の意義の要約であることを示します。「ナザレ人」という称号は、イザヤ書第11章1節(イザヤ11:1)の枝(ヘブル語は「ネツェル[netzer]」)のことを言っているのでしょう。そこの枝はキリストを象徴しており、ダビデの父、エッサイの株からの小枝のことを言っています。イエスが生まれた時、ダビデの王座はすでに転覆させられていました。これは、ダビデの王族の茎が切断されていたことを意味します。今や新しい小枝がエッサイの株から出て、その根から成長しました。この発芽と成長は、恥辱の状態の中で起こりました。イエスは承認され、あがめ尊ばれた王家に生まれたのではなく、エルサレムのような有名な町で成長したのでもありません。むしろ、彼は貧しい家庭に生まれ、さげすまれた町で育ちました。これらすべては、彼をナザレ人、堂々とした木の見事な枝ではなく、エッサイの株からの一見つまらない芽にしました。(回復訳)

いくら探してもマタイ2:23 の引用がどこからか分からない状況でしたが、イザヤ11:1からのものでしょう。なぜならヘブライ語
「芽」「נֵ֖צֶר:ネツェル」( צֶツァディ)という文字をラテン語で は正確に発音できないため、それが「ナザレ人」(Nazareus)を表している ものだとは分からなかったからでしょう。

芽(キリスト)から、花が咲くのですね。そして、「肉を食べず、ぶどう酒も飲まず、ただ花(キリスト)だけを食べなさい。」と解釈でき、キリストを食べ、我々は豊かに実を結ぶのですね。

 

間違ったマリア信仰 〜カトリック

カトリック教徒は、よく聖母マリアを主イエスと同じように拝むことがあります。

しかし、それは大きな間違いであります。

主イエスは、そのことを心配していたのでしょう、聖書の福音書にも以下のようにご自身で話しています。

「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 イエスは、「❶わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。❷神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」」
‭‭マルコによる福音書‬ ‭3:32-35‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/mrk.3.32-35.新共同訳

 

「❶わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 周りに座っている人々を見回して言われた。「❷神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われて、マリアは、❶わたしの母でなく、❷神の御心を行う人こそ、兄弟、姉妹、母だと語っています。

また、十字架上で弟子とマリアに対して、次のように語られました。

「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「❸婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 それから❹弟子に言われた。「❺見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭19:25-27‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/jhn.19.25-27.新共同訳

主イエスは、マリアに「❸婦人よ」と言われました。

「かあさん」とは言わずに「❸婦人よ」と呼んでいます。また、隣にいた弟子を示して「御覧なさい。あなたの子です」と言いました。つまり、マリアの子は、この弟子だと語られました。

それから❹弟子に対しては、「❺見なさい。あなたの母です。」と語られました。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取ったのです。養子縁組のような場面ですが、今後間違ったマリア崇拝が行われないように、意識して語られたと感じる場面です。❷神の御心を行う人こそ、わたしの母だ と語っていますから、周りにいる奉仕に熱心な年配の女性信者は、全員マリアになってしまいますね。ということは、マリア崇拝では、信者さんを拝まなくてはなりません。

マリア崇拝は、間違いです。主イエスは、「❶わたしの母とはだれか?❷神の御心を行う人こそ、母だ!」と言っています。

間違ったマリア崇拝が行われないように、釘を刺されたのですね。

聖母マリアに関わるいろいろな奇跡があったとしても、聖書のどこにも「マリアを拝みなさい」とは書いてありません。

熱心で真面目な信者が多いカトリックは、良い働きをたくさんしていますが、鳥が掬ったバチカンが何を言っても主イエスの御言を第一にして信仰していくことが大切だと思います。

f:id:AdonaiQuoVadis:20210218100735j:image

 

 

 

今夕のご臨在 〜夕日の燭台

f:id:AdonaiQuoVadis:20210211185623j:image

f:id:AdonaiQuoVadis:20210211190526j:image

2021.2.11撮影

「しかし、我々にとっては、主が我々の神であり、我々は、その主を捨てはしない。主に仕える祭司はアロンの子孫とレビ人で、その使命を果たしている。 彼らは❶朝ごと夕ごとに主に❷焼き尽くす献げ物を燃やして煙にし、❸香草の香をたき、純金の聖卓に❹パンを供え、夕ごとに金の❺燭台とそのともし火皿に❻火をともす。我々は我々の神、主に対する務めを守っているが、あなたたちはそれを捨てた。」
‭‭歴代誌下‬ ‭13:10-11‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/2ch.13.10-11.新共同訳

祈りは、❶朝ごと夕ごとに祈り、主に❷焼き尽くす献げ物(肉:あなたの世における思い煩い、負債、罪)を焼き尽くし、燃やして煙にし、❸香草の香(讃美と感謝)をたき、純金の聖卓に❹パン(み言葉を口ずさみ)を供え、夕ごとに金の❺燭台とそのともし火皿(エクレシア)に❻火(聖なる霊)をともす。

祈りの中で、示されたことは、旧約の生贄(肉と血)とは、主イエスの十字架であり、主イエスの聖餐の肉と血です。それは、言葉だけでない「愛」を示すためです。その「愛」は、❼命がけの「愛」です。ですから生命を捧げていたのです。

マタイ伝26章

26彼らが食事をしていた時、イエスはパンを取り、それを祝福してさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べなさい.これはわたしの体である」。
27また杯を取り、感謝をささげて、それを彼らに与えて言われた、「みな、それから飲みなさい.
28これは、多くの人に罪の赦しを得させるために、今、注ぎ出されているわたしの契約の血である。(回復訳)

ヨハネ伝15章

12わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも❽互いに愛し合いなさい.これがわたしの戒めである。
13人が友のために自分の❼命を捨てること、これよりも大きな愛を、だれも持つことはない。
14わたしが❽命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたは❾わたしの友である。(回復訳)

旧約時代の❶朝、夕の❷焼き尽くす献げ物とは、主イエスの十字架の贖い(罪のための生贄)を示していたのですね。十字架の命懸けの愛を示し、主が❽命じること=「❽互いに愛し合う」を行なうなら、「あなたがたは❾わたしの友」になると御言葉にあります。

❶朝、夕の祈りは、主に❷十字架の贖いを讃え感謝して、あなたの世における思い煩い、負債、罪を話し、赦しを請い、焼き尽くし、燃やして煙にし、❸讃美と感謝を語り、❹パン(み言葉)を口ずさみ、夕ごとに❺燭台の火皿(エクレシア)で❻火(聖なる霊)をともすのですね。