神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

新しい二つのエルシャライム ~その特徴3

 また、聖なる都、新しい❶エルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、❷神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、❸死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。❹先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。
 そして、わたしに仰せられた、「❺事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、❻いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
 ❼勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。❽わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
しかし、❾おくびょうな者、❿信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。黙示録21:2-8
 ヘブル語で見ると❶新しいエルサレムは、エルシャライム(双数形)で書かれています。双数形とは、エルサレムが二つあることを表しているとお伝えしました。天のエルサレムと地のエルサレムです。この天と地の二つの都はつながっています。二つのエルサレムは、その真珠でできた門がまるで物理学のワームホールのようにつながっています。天から地に降ってくる都は、臨在の中でその真珠門を開けるときに、天の都の臨在が地上に現れ、神の都が地上にやってきます。真珠門はトンネルのように天へとつながるのです。
その天国の門の鍵は、「イエスを生ける神の子キリストである」と告白したペテロ(岩)に与えられただけではありません(マタイ16:16)。その鍵は、岩(臨在)に与えられています。岩の上に建て上げた召会(エクレシア)に与えられています。岩(臨在)こそ鍵なのです。
「❷神の幕屋(会見の幕屋=臨在)が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいる」とは、まさに天国の様相です。神の幕屋は、神殿となり、エルサレムの基礎の石(アブラハムがイサクを捧げた岩)の上に作られました。神の会見の幕屋は、神のご臨在の満ちるところです。
そこは、「❸死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。❹先のもの(旧約の律法)が、すでに過ぎ去ったからである」と言っています。
 「❺事はすでに成った(完成した)。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終り(完成)である」と言っています。かわいている者には、❻いのちの水の泉(源泉)から価なしに飲ませてくれるのです。
 「❼勝利を得る者は、これらのもの(❷神とともに住み、涙もなく❸死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない、❻いのちの水を価なしに飲む天国)を受け継ぐであろう。❽わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」。神の子となる特権を与えられます。ハレルヤ!
しかし、「❾おくびょうな者、❿信じない者...には第二の死が用意される」。
 
 ヨハネ伝15章には、天国に至るための大切なことが書いてあります。
15:12 ⓫わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

13 ⓬人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。

14あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

15わたしはもう、あなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。ヨハネ15:12-15

 ゴルゴダイエスとともに十字架についた罪人も、イエス=キリストの十字架の贖いによって、パラダイスには入ることはできました。しかし、その上の天国で生きる者は、みなある特徴があります。かれらは、一様に愛にあふれているのです。

 天国民の特徴は、今までFBでずっと言ってきた愛の情動によって動く愛に満ちた品性なのです。敬愛する師が言っていました。マタイの25:37で困っている人を助け、「主よ、いつ、私がそんなことをしましたか」と言って、愛を意識しない者たち。意識せず愛の行動を行う無私の愛の人たちが、天国に生きているのです。無私の愛を持つことが天国のスタンダードなのです。

 天での高い基準は、イエスの言うヨハネ15章の⓫わたしのいましめにあります。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。⓬人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」ヨハネ15:12-13。何という高い基準の愛でしょう。「⓬友のために自分の命を捨てよ」というのです。

 またマタイ10章では、「⓭自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、⓮わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」。マタイ10:38-39とあります。

イエスは「⓭十字架を負え、⓮わたしのために自分の命を失え」と言っている。愛のゆえに友のために命を捨てることが⓫イエスの高い要求=いましめであります。あなたは、イエスとともに⓭十字架を負い⓮殉教(献身)できるでしょうか。

 そんな人たちの集まりであるから、天国は天国たりうるのです。あなたのために命をも惜しまず愛してくれる人たちの中で生きる至福が天国なのです。それが天のスタンダード(標準)なのです。何と高い基準でしょう。

 しかし、何と熱く麗しい愛でしょう。この日曜日の礼拝中に、天の門がなかなか開かず、待っていると黄金の天の町が現れ、この天国の愛に触れたのです。もう涙が止まらず立てませんでした。それほどの慕わしい愛の磁場。心溶かされるような感動の高嶺。愛する主。それが天国なのです。

 イエスは、⓭十字架を負う=殉教の決意ができないならば、わたしにふさわしくないと言っているのです。殉教の決意がなければ、御国の住人としては恥ずかしい者なのです。いのちを捨てるほどの愛がなければ、天国でも自己を主張する者が多く出て、争い事が絶えないでしょう。愛のない妬みや訴えや誤解を赦さない心も起こるでしょう。十字架の贖いによって、世人も罪ゆるされ、天国へ入ることは可能です。しかし天で恥ずかしくなく生きるには、イエスと十字架をともに荷う愛が不可欠です。意識せず愛の情動で人々を助ける。何も考えず困っている人に手をさし伸ばす愛の情動が必要なのです。マタイ25章の羊と山羊がここで分けられるのです。無私の愛がなければ、愛にあふれる天国はなりたたないのです。そのために必要なのは、殉教さえいとわず主を愛する無私の愛です。

 ここで不可能に思えるような殉教の愛を可能にするのは、イエス=キリストの十字架です。この方の命がけの愛にほだされて、肉の世人でも自分の命を投げ出したくなる。この方とくびきを負いたい!この方のためならいのちは惜しくない!

 天で生きるためには、そんな天国民のスタンダード=十字架を負う殉教の愛が必要なのです。

❾おくびょう者ではなく、殉教(献身)の決意をもって天に入ろうではありませんか。❿信じない者ではなく、命がけでイエスを信じ愛し、イエスの友となろうではありませんか。

 この天国の愛に触れれば、だれでも心が溶けてしまいます。そしてだれでも心を尽くして神を愛し、隣人を愛せるようになるはずです。 

 

また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。マタイ13:45-46

自分のいのちを代価に最も価値のある真珠を買った者たち

f:id:AdonaiQuoVadis:20160215202353j:plain

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2016/08/07/084205