神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

「異端」とは ~御国の福音を体現できない者たち

 今のキリスト教界を見ますと、ネット上で「あの教会はあぶないだとか、あそこは異端だ、カルトだ」とか、他宗派や教会を批判する者がいるようです。「この点が足りないとか、ここでがんばってほしい」とかいうのでなく、自らの考えで「まちがってる異端だ」と断罪するのです。
 その方は、実際に足を運んで、何ヶ月かでもいいからその群れに参加して一緒に話したことがあるのでしょうか。
 ある群れを「あぶない」とか「異端」として怖がるのは、批判する者や自らの群れに力がない証拠だと思います。だから怖がるのです。他の群れが、まちがった教えだと思うなら、その方たちに真理を示して方向転換させるべきです。そのくらいの力ある御国の御業をありありと示せないのでは、それこそご自身こそが異端ではないかと自省されるべきであります。キリストの御業を大胆に表した敬愛する手島郁郎師も既存のキリスト教会からは、異端視されることが多かった。
 「神の国は、ことばではなく力にあるのです」(1コリント4:20)
 中世から、カトリックでは異端裁判があり、いざ異端者と断定されると焼かれて殺されたり、投獄などひどく迫害されました。十戒には「殺すな」とある。~なぜキリスト教徒と自称する者が、異端だと言って隣人を殺したのか。
 主イエスは、どう言っていたか。「あなたの隣人を、あなたと同じように愛せよ」と「右の頬をたたかれたら、左の頬を向けよ」と~そんな主の教えを全く守らない者たちが、隣人を異端と断罪し、人々を拷問し殺したのです。どちらが真の信仰者だったか怪しいものです。
 実際に不思議な愛の奇跡を行う主イエスご自身も、ユダヤの祭司たちに十字架刑で殺されたのでした。
 もし、中世と同じようなことを、力ずくでないとしても、断罪しながら土俵の外であれこれ言うなら、異端裁判と同じではないでしょうか。そんなことをしている情けないやからこそ、主のみ前には異端であるのでしょう。
 世の終わりには、すべてのキリスト教の異端と呼ばれる者たちも、「神の国の力ある顕現」を目の当たりにして、真のキリストの教えに気づき、立ち返ることでしょう。今は、確かに偽物をつかまされているかもしれない。しかし、本物が来れば、その絶大なる価値に「すべての財産をはたいて宝の隠された畑を買う」ように力ある御国の福音に戻ってくるのです。その群れ自体が、教理や余計なこだわりを捨て、御国の福音「力ある御国の顕現」に心酔し、神によろこばれる霊性に修正される。これこそがイエスの説かれた力ある御国の福音です。
 イエスに躓いたバプテスマのヨハネが「来るべき方はあなたですか?」と弟子を遣わしたとき、イエスは何と答えたか。教理を伝えたのか。いいや、御国の福音の事実を見よと言ったのです。マタイ11:5では、「 盲人は見え、足なえは歩き、 らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。」あなたの見たとおりだ!と言っています。これこそが主の回答です。
 ことばではない。教理でもない。現実に「神の国の力」を現せなければ、ことば遊びでしかない。「お前が見てる通りをヨハネに伝えろ!」とヨハネの弟子に言える。これが神の国の力ある福音です。
 この力ある御国の福音が体験「証し=証言」として、地の果てにまで、イスラム教、仏教ヒンズー教、あらゆる宗教、キリスト教の異端と呼ばれる群れの中にまで伝えられて、世の終わりが来るのです。
 あなたがこのような他の宗教・宗派に怖れを抱くなら、あなたは本物ではない。彼らをニセものだというなら、それに勝る圧倒的な神の力を体現して、どうどうと乗り込んでいけばいい。自分を救い主と言うような教祖の前で圧倒的な神の国の力を現し、御国の福音を示せばいい。エリヤのように天から火を呼び起こせばいい。
 われわれの周りで「盲人が見え、足萎えが歩き、らい病人がきよまり、耳しいが聞こえ、死人が生き返り、貧しい人々が福音を聞かされている」のでなければ、われわれはまだ主イエスのレベルの御国の福音に達していないのです。口先だけの教えで、他を批判しているなら、それこそエリヤに敵対し、イエスを十字架につけた者たちと同じです。

 バプテスマのヨハネにイエスが答えたこの「御国の福音」のレベルでなければ本物ではないのです。「盲人が見え....死人が甦る」御国の福音こそが、本物の福音と異端(偽物)を見分ける主イエスの正答なのです。
 議論やことば遊びではない。「神の国はことばではなく力にあり」。聖霊を受けて御国の力と天の「啓示」が与えられれば、この世の「教理」などは吹っ飛んでしまいます。天国を垣間見れば、すべてこの目で真実を見ることができるのです。

 「 しかし、聖霊があなたがたの上に降るとき、あなたがたは力を受けて、エルサレムと全ユダヤとサマリア、また地の果てに至るまで、わたしの証人となるであろう」。使徒行伝1:8(原文校訂口語訳)
※証人とは、事実を証明する人。自己が経験により認識・知覚した事実を述べる人のことです。

 われわれは、異端とよばれる群れをも「御国の福音」へ引き戻し、引き上げていく「力ある」神の国の体現者となるべきです。そんな福音の証人になれるように求めていきましょう。

(ステパノの殉教) 

 使徒時代の最初の殉教者。ステパノは「不思議な業としるし」によって民衆をひきつけたため、これをよく思わない者によって訴えられユダヤ最高法院に引き立てられ、石打ちの刑に処せられました。この場にサウロ(後のパウロ)が立ち会っていました。使徒行伝にあるように、サウロはのちに回心し、使徒パウロとしてステパノのように「不思議な業としるし」を行う宣教者に変えられたのです。ハレルヤ!

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