神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

十字架は天である ~サンダー・シング SS4

サンダー・シングのことばより

 私は人々に福音を伝える時、「投獄」「苦難」「迫害」という言葉を使う。しかし、その「苦難」は、全く苦難ではなかった。もし、私がほんとうに苦しんだならば、村々へ福音を宣べ伝えに行かなかったであろう。

 実際、私が救い主のために苦しまねばならない時にはいつも、地上に天を見出した。その天国は、他のどこにも見つけることができないような素晴らしい喜びを、私に与えてくれた。そしていつも、疑う余地もなくはっきりと主の臨在を覚えた

 私がキリスト者となる前には、「苦難」は苦しみであった。それは、私の心に平安がなかったから……。それは文字どおりの苦しみで、地獄にいるような心地がしていた。しかし、私が回心すると、苦難は全くなくなってしまった。投獄された時、そこは牢獄でなく、私にとって地上の天であった。迫害のただ中にあって、迫害されない時より大きな喜びがあった。食物がない時には、ご馳走を食べていた時以上の喜びがあった。この喜びと、地上にある天を私に与えてくれたのは、主の臨在である。そして、この喜びは誰も奪うことができない。

 ネパールのイラムへの途上、心から神の言葉を聴いてくれる人々がたくさんいる村を通った。その辺りの道は険しく、坂を上ったり下ったり、いくつも川を渡るので、疲労こんぱいする大変な所であった。

 1914年6月7日を私はいつも思い出す。旅の疲れ、極度の飢えと渇き、激しい豪雨、12キロに及ぶ上り坂。すさまじい一陣の風が私を洞窟の中へ投げ込んだ。

 ああ、主はほむべきかな。あのような高さから落ちたにもかかわらず、私は無傷であった。しかり!その洞窟は私にとって安らかな神の膝の上となったのだ。そこでは傷つくことはありえないし、上り坂はパラダイスに至る道、突風は愛の波となり、豪雨は慈しみのシャワーとなった。飢え渇きは充足となり、疲労は息づきに、主の十字架は平安となった。

 主の十字架の幾段階が私の前に幻として示された。ゲッセマネの園での徹宵の祈り、飢えと渇き、笞と茨の冠で血を流して……、そして自ら十字架を運ばねばならなかった。ああ、慕わしい主よ、あなたの十字架の前には、私の十字架など何でもありません。あなたの十字架という格別な愛と恵みによって、私は祝福を受けてきました。そして、これからも受けるでしょう。

 心が空しく、魂の平安を知らない私の兄弟たちに、言葉では表しきれない、我が魂のこの平安をいかにかして示せたら、と願うが、どうしてできるだろうか。これは、体験した者でなければ理解できない「隠されているマナ」(黙示録2章17節)である。

 私は体験から、これだけは言うことができる。主の十字架は、それを負う者を引き上げる、と。そして、痛みに満ちたこの世において平安の流れへと運んでゆき、それを負ってキリストに従う者を天へと連れてゆくのだ。

(Sadhu Sundar Singh著 The Cross is Heavenより抄訳)紹介させてください。

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