神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(神の至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

❤️敬愛する師14  ~霊想の心得

 瞑想に於いては、まず深く深呼吸を調え(ととのえ)、静寂な平安の心境裡(しんきょうり)に、主イエス・キリストの臨在を覚えつつ精神を集中し、純一無雑な心境に天を映す如く坐し、次のことどもを想念し、忘るべからず。

一、如何に無限の神の愛と恩寵を拒み(こばみ)つつあるものが、まずこの自分であること。罪を悔いよ。

二、イエス・キリストは、何故、今も十字架に付けられてあり給うや。

三、キリストは復活し、「見よ、我は世の終わりまで、あらゆる日々汝らと偕に(ともに)あるなり」(マタイ伝28.20)と、今も宣給う(のたまう)に、何故、この自分は?

四、「主は御霊である、主の御霊のあるところ、自由がある。我らすべては顔から面おおい(かおおおい)を取り去られて鏡に映る如く、主の栄光を反映、栄光より栄光にと進み、主の御霊によりて主と同じ像(すがた)に化体(かたい)しゆく」べきこと(コリント後書3・17~18)。

五、上よりの声を聴けば、信じ行え。上よりの霊的啓示に接せずとも、大自然は神の黙示である。   ~以上 師の言葉。

以下、自分なりの解釈を書きます。

 昔のメモに、「瞑想とは、神様のふところに立ち返ること。ふところに抱かれ、深く思う。聖霊をいただく体験は、まず深く呼吸を調えることが大事。神のいのちが入っているのだと自覚する。神のいのちがぬけないために、深い息を吸い込み、キリストを必死に呼ぶ。頭が変わるだけでなく、体を変える信仰。」と書いてありました。ありがたくも、主の御霊は、祈りの中で天を映す如くに集中させてくれます。上よりの啓示をいただくまでに導いてくださいます。

❤️一、「如何に無限の神の愛と恩寵を拒み(こばみ)つつある自分」とは、まさにコペルニクス的転回であり、神が祈りに応えず恩寵をくれないから、うらみつらみを祈る者とは、全く違う。まず自身が神の無限の愛と恩寵を拒んでいるのだ。そんな状況をまず悔い改めよ!と、師は気づいている。この気づきこそ恩寵である。ここに祈りの原点と、神の国の力を呼び込む姿勢がある。

❤️二、今も十字架上の架かられているイエスを、モーセが挙げた青銅の蛇のように今も仰ぎ見なければならない者がいる。毒蛇にかまれて死にかかった者たち。それは、十字架を仰ぐことでの救いが、まだ全世界に広まらないで、苦しんでいる者たちがいるということだ。自分は、どうか?自分の考えや思想で歩み、イエスを十字架にかけた祭司たち。そんな者たちのために「かれらを赦し給え」との主の祈りが、今も聞こえる....。御国の支配を広げ、主の救いのみ業、福音を宣べつたえよ。

❤️三、自分は、主と偕に歩んでいるか。「世の終わりまで、汝等と偕にあり!」との主の約束は、たがわない。この句から、主のありありとした臨在を意識せよ。自分は、主の伴う奇跡力を体現した生活をしているのか。主の奇跡を毎日体験しているのか。それがないなら、まだまだ本物でない。たしかにイエスはともに居給うぞ。

❤️四、我らすべては顔から面おおい(かおおおい)を取り去られて鏡に映る如く、キリストの栄光を反映しているか。ご栄光を映す輝く顔で生きているか。栄光より栄光へと進み、主の御霊によりて主と同じ像(すがた)に化体(かたい)する経験を、祈りの中で露わに感じ、自身も周囲の者も認めているだろうか。

❤️五、上よりの声を聴けば、信じ行え。御霊の声に従い、生きよ。聖霊により歩め。上よりの霊的啓示に接することがなくても、大自然は神の黙示であり、その雄大な心を受けて、何人にも雨を降らせ太陽を昇らせる主の愛のみ心を行っていけ。その心は、福音書のなかにある!まず、その心、助け主なる神の聖霊を身に受けよ。

神の約束された多くの祝福が、人生においてありありと現れ、癒しや奇跡が日々起こらないなら、それは、以上のような信仰の基本ができていないからだと言っているのです。

※執り成しの祈りをするカイラスの大聖

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