神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

祈りの中で42   ~愛が律法を覆う

 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。パリサイ人はこれを見て彼に言った、「ご覧なさい、あなたの弟子たちが、❶安息日にしてはならないことをしています」。

イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデが飢えた時、共にいた者たちと何をしたか、読んだことがないのか?彼は神の家へ入り、祭司のほか、彼も共にいた者たちも食べてはならない供えのパンを、彼らは食べたではないか。またあなたがたは、❷安息日に宮にいる祭司たちが安息日を犯しても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか?しかし、わたしはあなたがたに言う.宮よりも❸大いなるものがここにいる。

また、『❹わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたなら、あなたがたは❺罪のない人を罪定めしなかったであろう。❻人の子は安息日の主である」。マタイ12:1-8(回復訳)

  以前に、安息日など十戒を守ることについて書いたが、まだ悩んでいる小生に主は福音書安息日の箇所より語り給うた。

  パリサイ人は、安息日にイエスの弟子達が麦の穂を摘んで食べるのを見て、「❶安息日にしてはならないことをしている」と批判しました。主は、ダビデとその共の者が飢えたとき、神の宮の祭司しか食べることができなかった供えのパンを、祭司が食べさせたことを言われ、「❷安息日に宮にいる祭司たちは安息日を犯しても罪にはならない」ことを示しました。また、ご自身を「宮よりも❸大いなる者がここにいる」とおっしゃり、『❹わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない』と言われました。  

 これは、律法をまとめた「❼心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と「❽自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」の二つに、この律法に関する答えがあると言っているのです。主は、「これら二つのいましめに❾律法全体と預言者とがかかっている。」(マタイ22:40)と言われました。つまり、愛の行動は、律法を超えることができるのです。

 主は、安息日に病人を癒され、ベステダの池で寝たきりの病人を癒し、床(とこ)を上げることも問題にされませんでした。また、安息日に息子や牛が井戸に落ちたら救い出さないのかと言われ、彼らの誤った安息日の理解を指摘しました。安息日に隣人を助けること、癒すこと、主のご用を行うことは安息日の精神、主の律法に適うものなのです。弟子達が畑の麦を摘んで食べても、そんなことで人をさばいてはいけないことを「❹わたしが好むのはあわれみであっていけにえではない」と言われたのです。また、主は「宮よりも❸大いなる者がここにいる」といわれ、弟子達は、宮につかえる祭司と同様ですとも言われていることがわかります。 イエス・キリストはパリサイ人に、「あなたがたは❺罪のない人を罪定め」していると言っています。こまかく律法に付帯事項を付けて、愛の行動を忘れているパイサイ人に、愛に基づく心の律法をお教えになったのです。主を礼拝し、主にのみ仕える日としての聖なる日である安息日。しかし、「❻人の子は安息日の主である」と言われ、主は、人々を癒し、助け、愛の行動をせよと言っているのです。愛を基盤とした行動規範。それが、こまかな律法の規定をはるかに超えた次元で律法を完成させるものなのですね。だから愛を基礎にしたこれら二つの❼❽の戒めの柱に「❾律法全体と預言者とがかかっている」(マタイ22:40)のですね。

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