神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

💗真の求道者 釈迦 とその愚弟子たち 2015FBより

《修行期》
釈迦はネパールのタライ平原ルンビニで誕生しました。彼は、マガダ国のガヤー城近くのナイランジャナー、ウルヴェーラで修行をしていました。現在もインド人のサドゥーたちがやっているような断食や瞑想の修行と思われます。釈迦がウルヴェーラーの林へ入ると、父(地元の王)のシュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて5人のサポーターを同行させています。そして出家して6年の間、苦行を積んだのです。減食、断食等、厳しい修行を行ったとあります。ある牧師たちのように40日間の断食を年に何度もやるようなものでしょう。しかし彼は心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれています。その際、サポーターは釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思いました。

《釈迦の教え》
釈迦が生まれたのは今から2500年前の紀元前5世紀頃(縄文時代の終わり)、釈迦の一生は阿含(あごん)経典群に書かれていて、それらお経が釈迦の伝記になっています。
 釈迦は自らの思想を語るだけで、経典を残すなとも言っていました。これは昔の思想伝達の普通の方法で、釈迦が亡くなった後もしばらくはこの口伝が続きました。釈迦が亡くなった後に、愚弟子たちが釈迦の命令に背いて自分たちの記憶を整理し、これを仏典、つまりお経としてまとめ、後に書物の形で原始仏教経典として残しました。
 では、釈迦の考えとは何だったのでしょうか。そのエッセンスは、宇宙の真のしくみを学び、それを知ることによって心の平和を得る、という哲学でした。「宇宙の本当のしくみ」、「心の平和」といった抽象的な表現ではよくわかりませんので、もっと具体的に考えてみましょう。「事物は常に変化し、不変のものはない」というのが宇宙の真のしくみだと前提され、これが仏教の公理になっています。地球の自転、我々の銀河自体動いていることや「エネルギー不変の法則」(物質や空間をエネルギーが移動するがエネルギーの総量は変わらない)を知っている私たちには、けっこう当たり前のことですが...その公理のもとで❶命を大切にすること ❷偶像崇拝の禁止 ❸人間を平等に扱うこと ❹自分で物事を考え自分の責任で行動すること ❺死者に関する儀式(葬式)の禁止などが、心の平和を得る方法として捉えられています。
あれ?今の仏教がやってることとは、全く違う内容では...そうなんです。釈迦は、その当時としては土着の因習や悪い儀礼宗教や悪魔崇拝に対して、その廃止を願った革命的な人物だったのです。❶~❺の内容は、聖書でイエス=キリストが教えていた内容(❶~❸は有名。❹「彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」/「あなたの片手が罪をおかすなら、切り捨てよ」❺「死人のことは死人にまかせよ」など)と同じです。しかし、どうして今の仏教は、釈迦の教えを無視して紀元前5世紀と変わらないような、こんな土着の因習や悪習慣を引きずっているのでしょうか。すべて、釈迦の教えを無視して勝手に「釈迦がこう言った」(こう聞いた)と愚弟子が付け加えたことによるのです。これが膨大な量のウソ経典になったのです。原始仏教聖典原型『阿含経』『法句経』『ジャータカ』の成立が、釈迦没後約200~300年たってからです。いかに信憑性がないかがわかります。しかしその中の「阿含経」では、❶命を大切にすること(これは不殺生戒として今の仏教にも残っています)❷偶像崇拝の禁止(最初の500年くらい仏像はなく、釈迦の骨(仏舎利)以外に拝むものがなかったようです。仏教徒が仏像をもつのは釈迦が死んで400年以上経ってからのことです。)❸人間を平等に扱うこと(カースト制度とは両立しません。インドのカースト制度は厳しい身分制度ですが、その最も下のシュードラという階級に属するウパーリという弟子がリーダーとして教団を指導したという経典の記述があり、釈迦の仏教教団はカースト制度を基本的に無視していたと思われます。)  
❹自分で物事を考え自分の責任で行動する(悟りをひらくのは自分自身であり、またその悟りも人によって内容が違うかもしれない、ということになります。事実、釈迦の死後、仏教は統一教義をもっておらず、したがって、異端の概念もありません。ただし、この個人主義は宗教としては議論のあるところで、後に個人主義自体が間違いであるとする反対意見が出て、没後900年くらいに大乗仏教の登場という事件が発生します。このことから、初期の仏教教団を宗教集団ではなく個人主義を基本にした修行集団だったとみるべきですし、もはや大乗仏教は釈迦の教えと全く違う宗教といえます。) ❺葬式の禁止(上座部のお経に釈迦の言葉として書かれています。釈迦は自分の教えが生きている人のためのものであり、弟子たちには死者には決して関わるなと厳しく言ったようです。インド人には基本的に死んだ後はまた何かに生まれ変わるという輪廻転生という考え方がありますが、仏教界では、釈迦は輪廻転生を否定していたという研究者が少なくありません。また、生きているときの行いによって決まるのであり、死後は何をしようがもはや手遅れと考えていたようです。釈迦の考えた仏教はあくまで生きている人間のためのものであり、◉葬式や法事は釈迦の考えた仏教とは全く無関係のものなのです。日本だけにある戒名位牌などは、江戸時代に幕府がキリシタン弾圧のため、宗旨を区別するのに導入した制度でした。)

原始仏教経典の成立》
釈迦が亡くなったすぐ後に、弟子たちが記憶した釈迦の教えを確認しまとめた結果が初期経典で、どれも口伝です。後に経典は如是我聞(私はこう聞きました)という言葉で始めるという約束ができ、口伝形式の経典は一定の書式の書物になっていきます。
 口伝で教義を伝えるということは、釈迦が一定の権威をもつ場合に弟子たちがその権威を独占できるとともに、釈迦以外の考え方を教義の中に入れ込むことも可能になります。これは伝言ゲームが正しく伝わらないのと同様です。
 キリスト教イスラム教では、教義を一つにして皆で同じ教えを信じるために何度も話し合いや論争をしていますが、仏教では一度もこのような教義の統一は行われませんでした(指摘があり訂正しました。ありがとうございました→)。仏教では釈迦入滅後から紀元前1世紀までに4回の結集といわれる教義統一を行いました。しかしその後、紀元前50年ころ大乗仏教が現れ、日本の多くの仏教諸派大乗仏教となっています。紀元後も指導者によりたくさんの経典が編纂されています。「如是我聞」で始めれば何を言っても仏教のお経として認められる傾向があります。ですから、紀元後にも仏教の経典は莫大な数に膨れ、相反する内容の説が乱立したのです。
 異質な考えが混入した証拠が現在の仏教に残っています。初期仏教の段階からバラモン教の神々が多数紛れ込んでいます。例えば、四国の金毘羅さんの正体はガンジス河のワニです。そのほかにも弁財天、帝釈天、水天宮などの「天」のつく仏さんの正体はすべてバラモン教の神々です。これにはそれなりの理由があります。新興の仏教教団がバラモン教などの既存の教団からいじめられ、妥協の結果、このような異教が拝むものも認めてしまったのです。

 僧侶のみなさん、このような民間伝承やバラモン教まで入り、釈迦の教えから全く相反する仏典をまだ教えるのですか?偶像礼拝、死者の葬儀、人間に階級をつけ、間違った経典をさもうやうやしく教えていて、救われるのですか?釈迦がそう言っていたのですか?
 日本人は、そんな僧侶に高いお布施を払い、信心しているのですから本当に実直でお人よしです。そんな人たちを騙して高いお金をとっていていいのですか?
 私は、京都のステーキ屋で肉を食らいワインをたらふく飲んで酔っ払うたくさんの僧侶を見ています。釈迦が今生きていたら何というでしょうか?
釈迦は言うでしょう。「お前たちはだれだ?何を教えているのか?仏教の名を語ったニセ弟子め!」この状況を見て、釈迦は、修行中彼を悩ませたマーラ(悪魔)の仕業であると断言することでしょう。真摯な気持ちで求道していた釈迦があわれです。どんな宗教も後を継ぐ愚弟子が、真理に自分勝手な考えを入れてゆがめてしまっています。それこそが90%の真理に10%のウソを入れて、真理をねじ曲げる邪鬼悪魔の巧妙な働きなのです。どうぞ仏教を信じている方たち、マーラ(悪魔)に騙されずに、自分の魂に正直になり、真摯に神を求めてみてください。今の仏教は哲学であると言ってることもわかっています。しかし、釈迦は梵天(三神一体の神)に導かれて悟りを広めたとあります。真摯に修行すれば、神の存在(ある人は、救世主を弥勒や阿弥陀如来と見たかもしれません)がわかるはずです。どうかあなたの良心に正直になり、無心ではなく、理性と良心で考えてください。確かに死後にあるのは、天国(極楽)と地獄なのです。日本の仏教の僧侶が本当に極楽に行けるのですか?私は、キリスト教徒だと言っても、彼らがみんな天国に行くとは考えていません。また、日本のまじめな僧侶の方々こそ天国にふさわしい資質を持っていると思っています。どうぞ一度でいいので、偶像ではなく、宇宙の創造主なる神に祈ってみてください。「万物を作られた創造主よ、本当にあなたがいるなら、あなたをはっきりと私に示してください。」と。必ず応答が来ます。
《修行中に邪鬼の誘惑を受ける僧》《断食中、悪魔の誘惑を受けるイエス》

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