神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

レーマを読み解く2 〜種入れぬパンとは 今日から過越祭 FBより+

    安息日の朝、祈りの中で示されたこと。それは出エジプト記に出てくる種入れぬパンの意味。
 出エジプト記12:15~「七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。
 かつ、あなたがたは❶第一日に聖会を、また❷第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。❸正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。❹七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。❺あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて❻種入れぬパンを食べなければならない』」。出エジプト記12:15-20
~《種》とは何でしょうか~共観福音書にはいくつか出てきます。
マタイ伝16:11~「『わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、❼パリサイ人と❽サドカイ人との《パン種》を警戒しなさい』。そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、《パン種》のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との《❾教》のことであると悟った。」(マタイ16:11)
マルコ伝では、少々違っている。マルコ8:15~「そのとき、イエスは彼らを戒めて、『❼パリサイ人の《パン種》と❿ヘロデの《パン種》とを、よくよく警戒せよ』と言われた。」(マルコ8:15)
❾にあるように《パン種》とは《教え》のことです。KJVでは、《doctrine(教義)》とある。❼パリサイ人と❽サドカイ人の教義についてふれると、両者は、神殿の崩壊まで、常に対立していました。対立の理由はいくつかあったのですが、端的に言うなら、「神殿による権威主義的なサドカイ派」と「民衆の間にいることを目指した民主的なパリサイ派」と表現することができるでしょう。
 紀元70年神殿の崩壊後、神殿をよりどころとしたサドカイ派は消滅したため、パリサイ派ユダヤ教の主流派となりました。こうして会堂に集まって聖書を読み、祈りを捧げるというパリサイ派のスタイルが、ユダヤ教そのもののスタイルとなったのです。
エスは❼パリサイ人や❽サドカイ人の「宗教指導者の《教え》に警戒しろ」と言い、❿では、その当時の為政者ヘロデ・アンティパスを支持するヘロデ党、今でいうなら「政治団体の《教え》に警戒しろ」と言っています。政府の情報やマスコミの情報、各政党の思惑による偏った情報のみを鵜呑みにする。そんな単細胞にならないでください。ここが要ですが、今世界的な問題である大企業と政府の癒着によるコーポラティズムに気をつけなくてはなりません。実際に現場で何が行われているのか。その目で見て判断することが大切です。このヘロデのパン種におどらされているクリスチャンが多いようです。「蛇の ように賢く、鳩のように直くあれ」マタイ10:16と聖書にはあります。

 では、❻《種入れぬパン》とは何か。マルコ14:22「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取れ、これは《⓫わたしのからだ》である』。つまり《❻=⓫イエスのからだ》なのです。イエスのからだとは何か。それは、預言行者のところで話しましたが、《イエスの言動、イエスの教え》こそ父の御業であり、純粋な御心、種入れぬパンなのです。
 さて、それでは、出エジプト記での啓示に移ります。「❶第一日に聖会を、また❷第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。 中略 ❸正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。❹七日の間、家にパン種を置いてはならない。 中略 ❺あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて❻種入れぬパンを食べなければならない。」

 ここを解釈してみましょう。「❸ニサンの月の十四日(今日です)と二十一日に仕事を休み聖会をし、❸ニサンの月の十四日の夕から、イエスの言動のみを学び、心に入れよ。その月の二十一日夕までそれを続けなければならない。❹七日間、家の中に他の教えを入れてはならない。またそのような種の入った本やメディアを家に入れるな。テレビも新聞もだめだ。❺他の者の教えは聞いたり読んだりするな。宗教的な指導者や政治的な教えも聞いたり読んだり話したりするな。そしてあなた方の家において、❻イエス以外の教えを学ばず、イエスの言動のみを学べ。」~聖書以外と言ってもいいのですが、パウロなどの宗教的指導者の手紙は、その当時の社会情勢や教会の状況に合わせて書かれており、純粋なイエスの御心がストレートに表れていない。そこで福音書と祈りでイエスの純粋な御からだを心に入れる七日間を持てと、解釈しています。たしかに、イエスの生き方をストレートに学ぶには福音書が最適であり、それが信仰の土台にならなければならない。  

 またイエスの語った真意を聖霊により咀嚼し理解しなければ、まだ小学校の基礎が分かっていない信仰状態と言える。信仰の基礎や土台がなければ、相反する聖書箇所はいくらでもあり、各々の考えや解釈で各々信仰にブレが出てしまうのです。しかしイエスの言わんとする真意がわかれば、他の聖書箇所のプライオリティーも一瞬で判別できるようになる。これにより御霊の啓示でみ言葉の食物が柔らかいか固いか判断もでき、固い食事を理解し味わうことができるようにもなるでしょう。ここでもう一つ大切なのは、「食べる」とは、「理解し、味わい、体験し、キリストのように自分の身体の一部にする」ことです。
第一コリント5:6-8
「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかの《パン種》が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。 新しい粉のかたまりのままでいるために、古い《パン種》を取り除きなさい。あなたがたは《パン種》のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古い《パン種》を用いたり、悪意と不正の《パン種》を用いたりしないで、《パン種》のはいらない、純粋で真実な《パン》で、祭りをしようではありませんか。」~この《パン種》を《教えや考え》に、《パン》を《イエス=キリスト》に置き換えて読むとよい。ハレルヤ!われわれの教義や考えはすでにキリストとともにほふられたのだ。われらの心にイエス=キリストの純粋なことばと人生観・世界観だけを取り入れ身に着けようではありませんか!
 ※マッツォはまるで、み言葉を書いた聖書のページのように見えませんか?

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