神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

炎から取り出された燃えさし ~イエスの予象 FBより

ゼカリヤ3:1~4より

  主はみ使いの前に立つ❶大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしている❷サタン(告発者)をわたしに示された。
 ❸主の使いはサタンに言った、「❹サタンよ、主がお前を咎められるように。エルサレムを選ばれた主が、お前を咎められるように。ここにいるのは❺炎から取り出された❻燃えさしではないか」。...
 ところでヨシュアは❼汚れた衣をまとい、み使いの前に立っていた。
み使いは自分に仕える者たちに向かって言った、「彼の汚れた衣を脱がせよ」。それからみ使いはヨシュアに言った、「見よ、わたしはお前の❽罪を取り除いた。お前に礼服を着せよう」。(原文校訂口語訳)

ヨシュアは、紀元前515年 - 紀元前490年の旧約聖書に登場する大祭司である。ユダの総督ゼルバベルと共に神殿再建を指導した。❷サタンは、告発者という意味をもつ。ヨシュアを告発しようとする。❸主の使いは、YHWHと同じ心を持つYHWHの代弁者としてここに現れる。口語訳では「=主YHWH」で混同され訳されている。イエスであるのだろう。❺大火災とはヨシュアが、大火災であったバビロン捕囚を免れた者であることを表現している(アモス4:11)。❼汚れた服は、罪を指し、当時捕囚されたイスラエルの罪を大祭司ヨシュアが負っていることがわかる。これが一般的な解釈。
 霊的には、❻燃えさしとは、自分自身を燔祭の生贄に焼き尽くした姿。❼汚れた服とは、自らは罪をおかしていないが、民の罪や苦悩を負った大祭司=救世主の姿。それを❷サタンが告発しようとしているが、主YHWHは、反対に❹サタンを(原文では"強く")咎められた。
 これは、火である聖霊に従いきって、自らを燔祭に捧げ、民の汚れた罪を着たイエスの十字架の予象である。YHWHは、❽その民の罪を負って汚れた服を脱がせ(罪を取り除き)、礼服(祭司服)を着せてくれたのである。
~これからあとは祈りの後で示されたvision~
 間違ってはならない。自分で礼服(祭司服)を着るのではない。自分の肉の努力で清まると思うな。額に血管を浮き上がらせ真っ赤な顔で自分自身の清めを祈っても、我肉が強くなるだけです。そんな山伏のような肉の努力の人を主は求めていない。心を火のような聖霊に明け渡し肉を灰にして燃えさしとなること。並行して、民の罪や悲しみや病いや貧困やわずらいや孤独を自ら負う。そんな大祭司を主は求めているのです。他の宗教のように自分の聖さだけ求めてどうするのか。その心がすでに自分中心の世人そのものです。キリストの真理は全く違う天のものだ。友のために命を捨てよ。道に倒れている者の隣人になれ。汚れているといわれる癩病人をいだき祈れ。罪びと、取税人の友となれ。民の罪汚れ悲しみ病いを荷い執りなせ。自らを人々のために犠牲にする愛です。燃えさしとなるための聖めも必要でしょう。しかし、民を執り成す愛の情動からの行いも大切です。民のために心燃やし、燃えて燃えて燃えさしとなり、それからやっと主が使いに「その汗と涙と血で汚れた服を脱がせよ」と言われ、かわりに主おん自らによって、義の礼服を着せていただくのです。勘違いしてはならない。自分で聖くなるのではない。主のみ心を行い、主とともにくびきを負うということ。❻燃えさしとなられたイエスとともに十字架を荷うこと。主YHWHは、その人を軽しめられず、❽その罪を取り除いてくださる。
 この❻燃えさしאוד(brand)には、「火掻き棒・焼き印」と言う意味もある。

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