神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

💚敬愛する師 1 ~死人が甦る奇跡力の伴う福音 奇跡10

過去の記事に説明を付加し、掲載します。

 塩原聖会参加者の話~「1960年8月、私(日本基督教団牧師)は聖会に初めて参会した。聖会二日目、滝浴びの最中、小菅さんが倒れ、引き上げられた時には、すでに瞳孔が開いており、チアノーゼが出、脱糞で死んでしまった。その時、伝道者たちが7,8人、一生懸命に祈ったが駄目でした。先生がやってきてフーッと息かけて按手して祈ると、たちまち甦ったのをこの目で見て、本当にビックリした。 中略  ○○館社長が6つの重病から全く癒されたのもこの聖会であった。私の所属していた日基教団の牧師も『聖書にある癒しなどは、昔のことで今はない。』と説教している状況である。しかし、その塩原の聖会で、目の前で死人が蘇生し足萎えが立つ、聖書の生きた事実を見ては、自分が回心して全くひっくり返ってしまった。」~以上証しよりシェアします。

 師の特性は、共にいたもうキリストの圧倒的な奇跡力の顕現でした。しかし、その奇跡力を誇示することなく、聖書の言葉通り「神の国」と「聖霊の愛」に重点を置いて語っていました。癒しなどできない霊的にも信仰面でも力のない教役者は、「癒しの奇跡などない」と言っていましたが、聖書記事の事実が目前に現れると、ビックリ仰天するのです。未だ異端だと言って批判されることも多い師ですが、天的な理解のない者が、パリサイ人のように批判しているだけにしか見えません。彼ら批判する者は、死人をよみがえらせる天国の権威・支配を現すことができるのでしょうか。そんな言い訳ばかりのパリサイ人の教えが、蝮の子を作っています。そんな人たちが現代にもいるのが残念です。

 師が天界で見た天使ミカエルは、自分を捨て命がけで、サタンを打ち負かしていた。それは、神への愛からできる行為であり、師はその命がけで霊の戦いをする姿勢を学んだ。我々の戦いは、世人の言うような人殺しの戦いではなく、人を生かす霊の戦いなのです。

黙示録12:7-12

「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。

その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、『今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、❶死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。それゆえに、❷天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである。』」(黙示録12:7-12)

❶は、回復訳では「彼らは死に至るまでも、自分の魂の命を愛さなかった。」❷ここに大切な奥義がある。師がそうであったように、われわれも天とその中に住む者たちの仲間になろうではありませんか。

※戦うミカエルの姿

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