神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

レーマを読み解く3  ~5千人の給食奇跡12

 ガリラヤ湖畔のタブハ(Tabgha)は、主イエスが多くの奇跡を行なったところです。20代のとき、8月初旬だったか、神の恵みによりタブハ近くのガリラヤ湖畔のユースホステルで避暑のため1週間ほど過ごしました。

 ある日、夕刻までガリラヤ湖で泳いでいると、他の客に夕飯を全部食べられてしまった。当時、日本人は私だけで、巡礼の宿泊客が少しいただけだったと思います。それで食事を早く片づけられたのでしょうか。しかたなく、残ったサラダとパンだけお願いして食べたのを覚えています。このユースホステルでは、大した食事は出ず、周辺に店もなく、いつもひもじかったのです。ルカ伝では、弟子たちがタブハについてこう言っています。「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」(ルカ9:12)  2千年前からそんな寂しい場所だったはずです。確かにタブハでは、朝残したパンをバッグに詰めて昼食とするくらい辺鄙なところでした。そんなタブハで、イエス様は5千人の給食を行ったと伝えられています。

「これらの事の後、エスガリラヤの海、すなわちテベリヤの海の向こうへ行かれた。すると、大群衆がに従った.それは、が病んでいた者たちに行なわれたしるしを見たからである。エスは山へ登って、弟子たちと共にそこに座られた。さて、ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。エスは目を上げ、大群衆がご自分のほうにやって来るのを見て、ピリポに言われた、『この人たちの食べるパンを、どこで買おうか?』がこう言われたのは、ピリポを試すためであって、ご自分では、行なおうとすることを知っておられたのである。ピリポは答えた、『二百デナリほどのパンでも、めいめいが少しずつ食べるには十分でないでしょう』。弟子たちの一人、シモン・ペテロの弟アンデレがエスに言った、『ここに、五つの大麦のパンと二匹の魚を持っている少年がいます.しかし、こんなに大勢では何になりましょう?』エスは言われた、『人々を座らせなさい』。その場所には草が多かった。男たちは座ったが、その数はおよそ五千人であった。エスはパンを取り、感謝をささげてから、座っている人たちに分け与えられた.魚についても同じように、彼らの望むだけ与えられた。彼らが満腹すると、エスは弟子たちに言われた、『残っているかけらを集めて、少しも失わないようにしなさい』。そこで彼らが集めると、食べ終わった人たちが残した五つの大麦のパンのかけらで、十二の手かごがいっぱいになった。人々は、エスが行なわれたしるしを見て、『このは、まことに世に来たるべき預言者である』と言った。エスは、彼らがやって来て、ご自分無理やり捕らえてにしようとするのを知り、ただ一人、再び山に退かれた。」(ヨハネ6:1-15 回復訳)

 この5千人の給食を、あれこれ計算して本当だろうかと悩む人がいます。この奇跡では少量の食物で5千人が満腹し、おつりがくるような、物理的には頭を抱えてしまう奇跡でした。それも四福音書に共通して書いてある、実際に弟子たちが見た印象的な奇跡だったはずです。そして、この解き明かしは、ヨハネ伝でイエス自らが答えられています。

エスは彼らに答えて言われた、『まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.あなたがたが❶わたしを捜し求めるのは、しるしを見たからではなく、❷パンを食べて満腹したからである。 ❸朽ちる食物のためにではなく、❹永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい.❺これこそ、人の子があなたがたに与えるものである.それはに、なるが❻証印を押されたからである』。」(ヨハネ6:26-27 回復訳)

 主イエスの奇跡の中には、無から有を生じる奇跡がありました。これは、世人には不思議で、カナの婚礼での水をぶどう酒に変える奇跡のように、三次元の常識を超越するものでした。この聖書箇所では、 5千人の給食をあれこれ計算し考えてしまうくらい、不思議な奇跡をおこなっています。ここで群衆がイエスを❶探し求める行為は、まさにご利益信仰で、群衆がパンを食べ❷満腹したからにほかありません。四福音書に共通して書いてある、実際に5千人が体験した印象的な奇跡。しかし、これからが大切です。朽ちる食物についての奇跡をあれこれ考える人たちに対してイエスは、❸朽ちる食物ではなく、❹永遠に至る天国の食物を求めよと言っています。それは、「この世的な❸朽ちるパン(ことば・考え)を捨て、❹天国の食物(天のことばや考え)をもって考えるようにしろ、そのために労せよ」と言っています。先に話したように三次元世界の物理的な食物(ことば・考え)を求めては、❹永遠の食物(天のことばや考え)、天的恵みやイエスの言葉への信仰は、得ることはできないし、理解できないと言っているのです。つまり❺これこそこの世(三次元)の考えを超越した「❹天国(高次元)のみことば・考え方」であり、❺人の子(イエス)があなたがたに与えるもの(食物)であると強調されている奇跡なのです。イエスに父なる神が❻証印を押されたように、天に入る証印を得て「この世の考えでなく、天の考え方で、信仰をもって生きよ」とおっしゃっているのです。主イエスは、世人と違う土台で考え、この世と異なる土台にいらっしゃり、❸朽ちる肉の食物が増えた残ったなどと考えるな、天的な食物をまず考え求めよと言われているのです。

 この奥義がわからない者は、いつまでも「5つのパンはどうやって配った」とか「こんなはずはない」と計算高くあれこれ考え、信じることができないのです。船上でパン種について話されたとき、あれこれこの世の感覚で議論する弟子たちを叱ったように、そんな者たちを「まだわからないのか」(マルコ8:17)と叱っているイエスの姿が目に浮かびます。

 この主イエスコペルニクス的転回は、次の❹永遠の命に関わる大切なみ言葉につながっていきます。

あなた方は❸この世に属しており、わたしは❹この世に属していない。それであなた方は自分の罪のうちに死ぬ***『❼わたしはある』を信じなければ、あなた方は自分の罪に死ぬ」(ヨハネ8:23-24 原文校訂口語訳)

 イエスは、まさに神のひとり子。イエスこそ❼無から有を生み出す神と一体になった方であると確認できるみ言葉です!この一連の奇跡は、まさに弟子たちに天の現実や信じて願うことが実現する天の法則の理解を諭し導くためのものでした。ハレルヤ!

 まだ理解しがたいでしょうか。その方は、「祈りの中で49」も一緒に読んでみてください。敬愛する師は、「頭でいろいろ考えるなら、天は閉じてしまいます。西洋の教条主義に陥ったら、もう信仰はない。わかって信じようとしたら、キリストはわからない。キリストとともに歩いて、やっとそれから体験でわかるのだ。啓示的真理は突然開かれるのです。」と話していました。確かにタブハの奇跡は、四福音書に共通して書いてある実際に起きた印象的な奇跡であり、無から有を生じる奇跡であったのです。それは、頭でなく体験で理解するのです。

    この箇所は、もう少し関連する深い奇跡があるようです。そのヒントがあります。それは、「パン」と「ぶどう酒」と「魚」です。またいつかご紹介します。

※上 タブハのパンと魚の奇跡教会The primitive church built about 350 A.D. by the Judeo-Christian Count Yosipos of Tiberias. /下 ペテロ召命教会

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