神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

神殿税と宮清め ~ユダと祭司長たちの接点~FB改

「すべて数に入る者は聖所のシケルで、半シケルを払わなければならない。1シケルは20ゲラであって、おのおの半シケルを主にささげ物としなければならない。すべて数に入る二十歳以上の者は、主にささげ物をしなければならない。
あなたがたの命をあがなうために、主にささげ物をする時、富める者も半シケルより多く出してはならず、貧しい者もそれより少なく出してはならない。」(出エジプト30:13-15)
「アダルの月の15日には、両替商の机が町々に出される。25日には神殿の境内に出す。神殿に出された時点で、彼らは(払おうとしない者から)担保をとり始める。誰から担保をとることができるのか。レビ人、イスラエル人、改宗者、解放奴隷からである。しかし、婦人、奴隷、子供からはとることができない。~」(「ミシュナー」、シェカリーム1章ミシュナー3)
アダルの月には、神殿税としてツロの銀貨で半シケルを奉納する決まりがあった。金種が決まっているので、不足するツロの銀貨を扱う両替商が出たわけだが。イエスとその一行も、両替商が神殿の境内に出る時期にエルサレムを訪れて「宮清め」を行なったのだろう。もちろん一行も神殿税を納めたはずだ。神殿には角笛型の奉納箱が13用意され(シェカリーム6章ミシュナー5)、二十歳以上の者はその人数に応じて収めるのである。だれが主イエスと弟子たちの分を払いに行ったのか。宮清めのあとか先かわからないが、会計担当のイスカリオテのユダだろう。
エスの宮清めには、祭司長たちの腐敗のにおいがする。ツロの半シケルはそれほど流通していない。この時期このコインだけが高値で両替された。この希少なコインを両替商はどこから手に入れていたのかが、鍵となる。燔祭の鳩を売る者も多く出ていただろう。イエスの宮清めについて~「イエスは宮に入られた。そして宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台やはとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、『わたしの家は、祈りの家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」マタイ21:12-13と言っている。
ミシュナー(トーラーの註解)にも書いてある両替商のはずだが、主は両替商や鳩売り=強盗と呼んだのである。なぜだろう。実はこの後から、祭司長や律法学者たちは、躍起になってイエスを殺そうと計画する。ここに洞察が必要だ。
 ユダは、祭司長からもらった銀貨30枚と引き換えにイエスを売ったのだ。(マタイ26:15) 祭司長たちが出したその30枚の銀貨は、どこからのものか。祭司長が宮に収められた神殿税を使ったなら、トーラー、ワイン、薪、燔祭のための銀貨であるのだから、これを他のことに使えば盗みになる。また商売人からのキックバックなら賄賂のようなものだろう。ユダは自死の前に、その銀貨を聖所に投げ返している。そのあと祭司長たちは銀貨を拾い、「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない」(マタイ27:6)と言っている。自分たちのポケットから出したのなら、そのまま自分たちが受け取ればいいではないか。もし、金庫に返そうとしたなら、神殿税から出したことになり、祭司長たちは自分の金のように自由に遣い、盗んでいることになる。そして、まさにイエスは神殿の銀貨で買われた生贄になるだろう。何という神の御計画か。
 宮清めの際に、イエスはこの祭司長たちと商売人の一連のつながりを見抜いていて、「強盗の巣」と叫び、境内から商売人を力ずくで追い出すような、奇異に思える行動をしたのだろう。
 アダルの次はニサンの月となる。ニサンの15日が過越祭。最短でも約二週間の期間が過ぎても、執拗にイエスを殺そうとしている。なぜ祭司長たちは、しつこくヘロデやピラトのもとに行き、ピラトが「どんな悪事をしたというのか。」と言うにもかかわらず、群衆を説き伏せて、強盗バラバに肩入れし、イエスを十字架の死にまで追いやろうとしたのか。ピラトは、「ねたみのためだと知っていた」(マタイ27:18)とも書いてあるので、イエスの奇跡力や人気をねたんだのも理由だろう。イエスの群衆への影響を危惧した宗教的な動機(ヨハネ11:48)もあるだろう。しかし本当は、祭司長たちの不都合な罪を指摘されたための口封じではないだろうか。宮の神殿税からイエスの血の代価を払うということは、その銀貨を自由に使っていたのか。福音書記者は、面と向かって祭司長を批判しないが、陶器師の畑の記事からも読み取れる。(マタイ27:6-7)

 イエスは言う「ああ、エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられてしまう。」マタイ23:37ー38

 イエスの昇天後、紀元70年にこのエルサレム神殿はイエスの預言通りに、見る影もなく破壊されるのである。
《心の神殿》
 わたしの心の神殿にもかつて強盗や商売人が巣食っていた。主が宮清めをされた後の今はどうだろうか。神殿内の金庫に蓄えられたツロの半シケル銀貨は、聖なることに使っているだろうか。それと何よりも神殿は祈りで充満し、神の臨在が満ちていなければならない。そのような清い神殿の祭司であるだろうか。もし違っていたら、祭司長たちと、キリストを十字架につけることに躍起になる一人になっているのかもしれない。そして神殿も破壊されてしまうかもしれないのだ。「ああ主よ、この心をあなたの宮清めで、悪しきはかりごとや強盗の巣から大胆に強制的に解放してください。ただ父なる神を一途に愛し、礼拝する心と隣人を愛する愛で満たしてください。アァメン」

f:id:AdonaiQuoVadis:20160513000756j:plain