神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

敬愛する師5 ~師から見た宮潔め FB

 師の話より:「イエス・キリストは、過越の祭にあたってエルサレムの町にお入りになりました。そして、まずエルサレムの神の宮において何をなさったかというと、宮潔めということでありました。
ルカ19:45 -46(イエスは)それから宮にはいり、商売人たちを追い出しはじめて、46 彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」
 同じ出来事をヨハネ伝では、ムチまで作って商売人を追い出したり、屋台をひっくり返したりして大憤慨なさった、と書いてあります。
 私たちは、イエス・キリストといえば羊のように優しい方のように思いますけれども、聖書に書かれたイエス・キリストは、自ら暴力をふるってでも宮潔めをされたお方でした。だが、これはただ乱暴を働くためではない。神聖なるべき宗教が、このように腐敗し堕落しているのを見ると、もう堪らなく思われた。それで乱暴なさったのであります。本当の愛というものは怒るものです。怒ることのない愛というものは、私は愛でないと思います。見るに忍びない不正、不義、それらに妥協して見過ごすのは本当の信仰でもなければ、本当の愛でもありません。
 弱い者や、気の毒な人たちに向かっては情の深いキリストが、宗教政治家たちが拠って立つところのエルサレムの神殿において一人、大乱闘なさった。そんなことをすれば、どのような悲劇が身に及ぶか。ユダヤ人たちによって十字架の刑に渡される、ということは自明のことでした。しかし、あえてそれをやってのけられたところに、キリストの勇気、男らしさというものがあります。また、ほんとうに宗教を愛すればこそ、その熱心が、かくせしめたのです。

真実を叫ぶときに
 「宮潔め」を現代風に言うならば、宗教改革、教会の改革ということです。
 先日、『原始福音叢書』を全国に配布しましたら、感謝状とともに批評も送られてきました。「なるほど手島の書いたものはよろしい。ただし、教会への攻撃だけはいけない」と書いてあります。ところが私はそれが言いたいのであって、それがなかったら何のために配るでしょうか。ただいいことばかり書いた本を出したって、ほんとうに人を目覚ましむることはありません。
 キリスト教の歴史の中には、真に聖書を読んで、「聖書の信仰に照らして、今、行なわれているキリスト教はおかしい」と言ったがために迫害され、殉教した人が多くおります。
 カトリックの修道僧にサヴォナローラという人がおりました。この人は、カトリックのあり方を批判して本当の宗教に生きようとしましたために、ついになぶり殺されました。
 また、イギリスのジョン・ウィクリフが、聖書の翻訳をしました。それまで聖書がラテン語で書いてあったので、普通の人には何が書かれているかわからない。それで聖職者たちがいいかげんなことをする。だが、ウィクリフが翻訳を始めたら、「聖書にはそう書いてあるのか」と皆が驚いた。すると、彼は教会から酷い目に遭わされました。
 その影響を受けたのがボヘミアヤン・フスです。真の聖書の信仰を掲げて、腐敗したカトリック教会に対して糾弾の烽火を揚げたため、火あぶりの刑に処せられ、殉教の死を遂げました。
 そもそもキリストご自身が、このように真理のために戦う勇気をもっておられた。私たちも学ばねばならぬことです。宮潔めということを叫ばないキリスト教ならば、嘘だと私は思います。
 宗教というものは腐敗し、堕落しやすいものです。これは、生きているものだからです。放っておきますとすぐ腐ります。腐らぬように生命を保つことが、宗教の大事な心得だと思います。」     以上
 最近、師の群れに寄せてもらうことがありました。一時期は道を外れそうになったりしましたが、紆余曲折しながら軌道修正がなされてきた群れです。以前のような顕著な奇跡も少ないのですが、熱心さはどこにも負けない。一番であります。エクレシアでは異言はありますが、以前はあった霊歌は聞こえませんでした。預言はないようです。自分は、礼拝中霊歌が出てしまうのでここでも多少奇異な目で見られました。それと右傾化。神道ユダヤ教と関連があるのは神主も言っていますが、キリストを信じるなら潔く新約のキリスト一本で頑張ってほしい。そんなことを言う私には、ここでも自分の居場所がないのでしょうか。
 それにしても、どの教会に寄せてもらっても、自分はいつも異質な存在であります。2年ほど前に、近所の単立教会の礼拝に寄せてもらいました。若い牧師に、魚のたとえについてたずねますと、「魚は魚以外に何物でもない」と言う。「パンはキリストの身体であるみことばを表すのでは....」というと、「そんなこと聖書のどこにも書いてない」と言いきる。聖書に書いてある通りにしか考えるなという。そのあと聖霊派の話しをすると、怒りだし異端の悪霊呼ばわりでした。この牧師は、ギリシャ語が得意で、原文で聖書を読んでいると言ってました。勉強されているのだと思う。しかし御霊の扶助が低く、理解されていないのだと思いました。どうやって聖餐式を説明しているのだろう。このような方もいるのかと驚きました。
 みことばを読んでいる者が、みな神の御心を理解しているとは限りません。悪魔でさえみことばを利用するのです。
 こうやって聖書の字面のみで、形式主義に陥り、自分が気に入らなければ異端の悪霊よばわりする自信はどこから来るのでしょう。本当に「聖書には書いてない」のだろうか。私は「書いてある」と思っていつも話しています。
 自分は、異端と呼ばれるような方の話しも、慎重に聞き、その真意を探るようにしています。そして、その話の真意がみことばと愛を基調としているか。聖霊の働きがあるか否かを判断の基準としています。なぜなら、イエスも当時の祭司たちからは、異端扱いされ殺されたに等しいのですから。また初代教会もユダヤ教からは、奇跡力の伴う恐るべき異端集団でありました。だからステパノを寄ってたかって石打ちにするほどであったのです。
 悪霊呼ばわりする前に、もっと謙虚に主に祈り、みことばの理解を深めてほしい。聖書をよく読んでいた祭司たちの律法主義からの信念が、イエスを十字架につけたように、現代のクリスチャンの中にも自分の考えと合わない者を悪霊につかれていると言い、それは真実でないと根拠も示さず言い切るような人があるのは否めないところです。そういえばイエスご自身も「悪霊のかしらによって悪霊を追い出している」(ルカ11:15)と言われましたね。
 よく理解してないみことばの真理に対しては、謙虚に聖霊の扶助とともに、多角的に学ぶ努力も不可欠です。どうぞ、ただ、たくさん読んでいるだけでは無意味です。一節の聖句の深さを探求していくべきです。わからない箇所を、謙遜な真摯な心で神に何日も、ときには何か月も求めて、開いてもらうのです。
 そして、自分たちの思い込みでイエスを十字架の死にまで追いやった祭司たちにはならないことです。 

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