師の言葉より: 「十字架のキリストは、血のにじむような信仰経験によって、接神せられるものであって、現今の一般クリスチャンが安直に信じているが如き教理ではない。信仰は端的なことであっても、生やさしい事ではない。真に十字架のキリストを仰いで生きるためには、各自が自分に絶望し挫折して大死一番、その傷口よりキリストの血が注がれるための処置がなされねばならない。これ悔改めの回心である。主キリストの血に接がれるためには、自己否定の内的転換を要する。すなわち、一度、我らの古き人が十字架につけられ、キリストのように死んで生きる人間になることである。「十字架のキリスト」は決して頭脳の問題でなく、大死一番、血のしたたる死生の関の自己突破の上で、啓示される。しからざれば、キリストと共に復活する霊的な新しき生命に歩むこともできないからである(ロマ書6・1~11参照)。言葉の十字架論-空しい言葉の遊戯はやめたがよい。贖罪論がわれらを救わない、主の贖罪の血が救うからである。」 〜以上
われわれも救い主なるイエス様に接木され,論理ではなく,在り在りと働かれる主の御血と救いの御業を見ながら進みとうございます。(母は、学生時代に塚本虎二の有楽町での集会に通っていました。敬愛する師も、内村鑑三、塚本虎二、賀川豊彦に信仰の指南を受けたそうです。)
写真)師と賀川豊彦