神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(神の至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

6人の友を作れ  ~主イエスに会う経験 FB改

 大学時代に、通っていた下宿近くのホーリネス系の単立教会にひとりのホームレスがやってきました。確か土曜夜の伝道集会が終わったときでした。

 髪も髭も伸び放題で、梅雨時には似つかわしくないジャンバーを着ている。それほど年は取っていない。30~40歳くらいだろうか。教会の玄関にたたずみ「何か食べるものをください」という彼の言葉に、献身生があわてて牧師室に向かい、戻ってくると「今食べるものもないし、差し上げるものはありません」と断った。私は、「あれ?」と思った。「なぜ、食べるものでなくてもお金をあげるくらいしないのだろうか。」

 すぐに彼に声をかけ、近くのスーパーの地下食堂で定食をさしあげた。彼は無口であった。お礼を言うと、小雨の暗い坂道を亀岡の方へ上っていった。
 このとき早く気づけばよかった。彼は主イエスだったのです。
実は、昨年の冬にも主イエスに出会いました。
 主は、年の瀬の気温0度に近い公園のベンチの下に、星空を見上げながらふるえて寝ていました。また東京駅八重洲中央口の工事現場の塀にそって凍えて横たわっていました。
 なんで主イエスがそんなところにいるのかと不思議に思われるでしょう。
その答えはマタイ25章33節からの下りにあります。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
 

 終わりの日にわれわれが山羊と羊の二つに分けられることを知り、自分の行いを反省しています。私には圧倒的に不足していることがあります。それは実践です。「おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」~その言葉がそのまま私に投げかけられたのです。
 それから、野宿生活者について考えるようになり、ボランティアにもたまに参加します。主は最も小さい者に姿を変えていらっしゃいます。
 マタイ25:34「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが①空腹のときに食べさせ、②かわいていたときに飲ませ、③旅人であったときに宿を貸し、④裸であったときに着せ、⑤病気のときに見舞い、⑥獄にいたときに尋ねてくれたからである』。」
 都会の真ん中で、動けなくなっている野宿生活者を見かけると、食べ物や飲み物をあげられたらと思います。今①②④の友は何とかできました。あと③⑤⑥の友をつくりたいと思っています。なぜなら彼らは、できものだらけのホームレスだったラザロのように、天でアブラハムのふところに抱かれることになるのですから。彼らは、この世で見出せなかった良いものを天で受け取ります。彼らが天に上げられたとき、私を思い出してもらいたいからです。
 実はホームレスにも二種類います。いくらか稼ぎもありますが、朝から酒を飲んでいるような者たちもいます。しかし本当にお金がなく、飢えている人も少なからずいるのです。私には、もともと愛などありません。偽善かもしれません。自分が天国に入りたい自己中心的な動機からやっているのかもしれません。でも、このことをやりだしてから彼らと話し、彼らの苦しみを聞き、本当に困っている姿を知り、友となることができました。不思議に心から奉仕できるように変わってきました。動機など関係ない。友が飢えているからです。神が「やれ!」ということをやってみることです。忙しさに休みがちですが、この奉仕は本当に恵まれています。恵まれる理由はひとつです。主イエスに会えるからです。
「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子にはまくらする所がない」。マタイ8:20

 この話には後日談があります。ホームレスを追い返した40後半の牧師は、1年後にこの単立教会の群れを自ら去ることになり、自身がホームレスになったのです。
  現代にもいる~金持ちの門前のラザロ
 

真理 宗教のさんの写真