神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

❤️敬愛する師18 ~”在りて在る”実存に触れよ!

ボロボロのままでいい。”在りて在る神”の実存に触れよ!

「さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。

多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。

この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。

すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。

イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、『わたしの着物にさわったのはだれか』と言われた。

そこで弟子たちが言った、『ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか』。

しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。

その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』。」マルコ5:25~34

 贖罪論が救うのではない、教理は救わない。神の御霊、神の臨在が救うのだ。豊かなキリストに触れることだ。

 本当の罪とは、神の豊かさに触れず、神の臨在を排除することが罪だ。 

 イエスの愛は、何も問い詰めたり、責めたりしない。長血の女は、ボロボロのまま、汚れたまま、「その裳裾に触れさえすれば」と群衆の中をイエスに近づいた。イエスに触れた!ただそれだけで癒された。教理ではない。悔い改めて十字架を信じたら救われると言うが、その教理を信じることが救いではない。教理ではない!

 イエス様ご自身が救いなのです。神学的教理を信じることなら、それは教理を偶像としているのです。

 イエス様ご自身が救いなのです。イエスに触れること。このような豊かなイエスに触れること。神の豊かな世界に触れることです。神の臨在に触れること。神の実存が救いなのであります。ボロのままでイエスに、イエスの実存に触れるのです。

 ~以上師の聖書講義  メモより。

  いい話をいくら聞いても、そこにイエスがともにいらっしゃらなければ、無駄です。教会(エクレシア)とは、天国が開き、聖霊の風が吹き(使徒行伝2:2)、神の臨在を感じる場所であるべきです。その意味で牧師やリーダーの責任は大きい。説教が長ければいいというのではない。そこに主がともに居たもう臨在が感じられなければ、意味がないのです。臨在の伴う説教とは、説教中に聖霊の満たしが起こるのです(使徒行伝10:44)。敬愛する師が韓国の教会に招かれて説教すると、説教中に人々が聖霊に満たされたと語っていました。癒しや救いとは、神の実在を祈り求め、臨在を豊かに感じることで受け取るのです。いつも隣にいたもう友なるイエス様こそ救いなのです。

    主は、長血の女に、お前のここを悔い改めよとは言われませんでした。ただ、「安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」とおっしゃった。ハレルヤ!自分も長血の女のように、群衆をかき分け、どんなことがあっても主の裳裾にでも触れとうございます!

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