神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

祈りの中で50 〜天国の真理

朝がたの祈りの中で、示されたこと

1.悔い改めとは、自分の罪を発見し、それを無くすよう精進して努力することではない。仏教神道がやる行(ぎょう)のようなものとは、根本的に違う。悔い改めとは、悔恨ではなく、聖なる方に触れたときに起こるもので、涙の中でコンバージョンすることです。聖なる臨在に触れれば、いつでも起こることです。経験すればわかります。

 そこでとどまらずに、ゼカリヤ書の大祭司のように、主なる神に触れ、聖霊に満ち満ち、聖霊に焼き尽くされることが大切です。しょっちゅう自分を省みて落ち込んでいる状態では、聖霊に満ちているとは言えません。聖霊に満ち満ちて、導かれる人は、肉の自分を見つめ、自分が良くなろうとは、思わない。どうにもならない自分には、引導をわたし、いかに聖霊充満するかだけ考えて生きる。その経験のある人はわかるでしょう。一刻一刻聖霊に導かれることを行うので忙しく、目の前に行われる奇跡にわくわくして生きるのです。主の御心だけを考えて生きるのです。これが燃えさしの在るべき姿です。燃えさしとは肉が焼かれ聖化された姿です。

2.霊の世界の真理とさばきについて、霊はその性質上一体のものであり、意思伝達能力から一つの共同体であります。しかし瞬時につながるコミュニケーションを有するために、天の御国もこの世の悪もつながるところがあり、悪い思いや影響は、わずらわしい騒音のようです。それゆえに悪に対してさばきが必要なのです。

3.ゲヘナの場所は、1次元にあります。ただの点です。空間(広さ)も時間もないところで圧縮されてしまいます。その重力によりすべてを内包します。悪しき霊もそこで1次元の点に封じ込められます。もはや心の深層心理に影響するその悪しきものからの通信に悩まされることはなくなるのです。

ゼカリヤ書より

3:1 主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。

3:2 主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」

3:3 ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。

3:4 御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」 

3:5 私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。(ゼカリヤ3:1-5 新改訳)

f:id:AdonaiQuoVadis:20160601081815j:plain