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神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(神の至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

トマスの福音書1、2~開かれた聖書の骨格 FB再

 以前FBで紹介したトマスの福音書について、再掲します。昔の原稿です。トマスの福音書13~15節はすでに掲載していますが、残りの節を徐々に載せていきます。

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 ここ数年、外典のトマスの福音書コプト語の英訳を参考に、英語→日本語に少しずつですが訳しています。大変難解な文章ですが、主の語られたことだけを記録した初期の「Q資料(語録)」(聖書の骨格)と呼ばれるものに近いといわれています。言語学者や聖書学者が訳したものを読んでもピンとこないのですが、翻訳すると聖書の中のレーマも共通しており、大変な宝が隠されていると感じています。特にその隠喩を解読することで、今までになく聖書の解釈が変わってくるのは不思議です。今の日本語の聖書がいかに原文から外れた訳をしているかも少しずつわかってきました。
 トマスによる福音書は、イエスの語録集として古くから外典の中でも注目され、その真偽のほどが議論されてきました。真偽のほどは確かではないが、その文章の中には共観福音書との共通点も多く見受けられると同時に、四福音書には見られない難解な文章も多く、それゆえに福音書としての採用を敬遠されたとも思われます。しかし、この福音書に少しでも主イエスの御言葉が含まれているならば、114節の短い言葉を解読することは価値のないことではありません。否、多くの収穫を得ることができるかもしれないと感じています。序文にある「だれでもこれらの言葉の意味に行きつくなら、彼は死を味わうことがない。」とは永遠のいのちを示唆するものであり、それが本当なら驚くべき宝が隠されている可能性を示しています。その真偽については、114のことばの意味を解釈してみれば結果として見出すことでしょう。資料としては、すでに出版された日本語の訳も参考になるのですが、わかりにくい訳が多く、深い理解がしにくいので、自身で「Coptic/English.Translation of The Gospel of Thomas.Revised November 22, 2002.Copyright ã1997-2002, Michael W. Grondin. 」を資料とし、解読しました。なるべく最初は原文に忠実に「直訳」を心がけ、四福音書の共通項を参考に、ことばの意味を「解読」し、最後は「意訳」を試みました。またその解釈を新旧約聖書(主に新改訳、回復訳、口語訳)を参考にして試みました。また羊皮紙に穴が開き欠落しているところもあります。そこは英文の()で表しています。この解釈を試みることによって、この福音書(イエスの語録と言われる)がどのように英知に富んだものかが少なからず理解できました。また解釈の作業には、神の尊い導きと、旧新約聖書のレーマとが欠くことのできない助け手となったことは言うまでもないことです。
”According to John The Secret Things”
ヨハネによる隠されたこと
 これは、トマスが書いたと言われるものですが、もともとはヨハネの話した内容を書き留めたものと言っています。ヨハネ福音書では、使徒ヨハネは,自分をイエスに愛された弟子であると言っています。ヨハネ21:07 「そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」
 イエスに愛された使徒ヨハネであれば、この秘密のことばを聞いていた可能性が高いのです。それをトマスが聞いて書き留めたものであると言いたいのでしょう。
1節
Prologue These are the-words ()-hidden, which-JS01 who-lives-spoke(them), and he-wrote-them, viz-Didymos1> Judas Thomas,> and said-he this: Who--ever-falls onto-the-meaning of-these-words, he-will-take-taste not o f(the)Death. 
序文 隠された言葉

1直訳  
JS01 「これらは、生きておられるイエスが彼らに語った隠されたことばである。そして彼即ちデドモ、ユダ トマスはそれらを書いた。そして彼はこう言った。:だれでもこれらの言葉の意味に行きつくなら、彼は死を味わうことがない。」
デドモ、ユダ、トマスとは、どれもトマスの呼び名であり、ヨハネが彼に話したことを記録したということだろう。これらの言葉の意味を理解するなら、死を味わうことがないとは、驚くべき言葉です。理解しやすい句です。

2節
*S a id-JS02 (this) Let-not-him-stop, viz-he-who--seek, as-he--seek, until-he-find, > and w hen h e-should-find, h e-will-be-troubled, > and i f-he-should \be-troubled, h e-will-become- (left-half of line is blank) amazed, > and he-will-become- -king o v er-the-All.

2直訳

JS02 「イエスはこう言われた。彼を止めてはならない。即ち捜す者は見出すまで、捜すのをやめるな。彼が見出すべきとき、彼は悩まされるだろう。たとえ彼が悩まされても、彼は(左半分の行が欠落)驚かされる。そして彼はすべてを支配する王となるだろう。」
 「捜す」とは,いったい何を捜したらよいのでしょうか。「捜す」という語は、福音書の中ではあまり見かけないが、マタイ7:7「 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」の聖句が有名です。ここでは「捜しなさい」と「求めなさい」は対になって同義とも言える使い方をしています。そこで「求める」を含む聖句を開くと、マタイ6:33 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」ルカ12:31「 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」この2句は,「求めなさい」と訳されていますが,「捜しなさい」seekが使われているのです。
ヨハネ15:7 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」ここでは「求めなさい」askを使っています。
最初に捜すべきものとして「神の国とその義」が挙げられています。「神の国とその義」とは,いったい何か。それは、次の3つの聖句から推測できます。
ルカ17:20「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われました。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。」 ルカ17:21「『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」」   ローマ人への手紙14:17「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」
 上の3つの聖句を要約すると、神の国は「やって来るものであり、あなたがたのただ中にある」ものということがわかります。また、「神の国」とはKingdom of Godであり、kingdomには王の支配という意味が含まれています。われわれのただ中にやって来る「義と平和と聖霊による喜び」とは何でしょうか。神の王権、聖霊の喜びによる支配です。われらの心に聖霊が降るとき,聖霊に満たされ御霊の教示を受け語り歩むことができます。これは聖霊バプテスマを受けた者ならば,だれでもわかることです。聖霊の満たしは、神による支配,即ち神の国籍にはいることなのです。イエスの十字架は、「神の義」そのものですが、聖霊により神に支配に入れられたとき、人間は自分で行動するのではないので、罪を犯すこともなくなります。これが「神の義」です。神に支配された人間は,すでに神の御心と同じ思考をし,御霊に動かされ話し、行動できます。天地万物を治める創造主の霊を受けたのですから,「彼はすべて(天地万物)を支配する」と言えるのです。捜しものを見出した結果として「すべてを支配する」というのは本当であり、当惑する驚くべき力が与えられるということです。ヨハネ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」~「何でもあなたがたがほしいもの」がかなえられるとは、「彼はすべてを支配する王となるだろう。」を裏付ける聖句であると言えましょう。しかし今のキリスト教会は如何でしょうか。聖霊の存在を否定した暗く沈んだ頭でっかちの人々。病人や老人ばかりの集いも見受けられます。生命に満ち溢れる力強い礼拝を見る教会もある反面、聖霊を否定する世的な教会もあります。神に支配された兄姉はどこにいるのでしょうか。私は聖霊のありありとした働きを見たいがため、聖霊を求める諸教会をめぐりました。中には異端とよばれる集会にも関わりました。しかし聖霊様の大いなる顕現(shekinah)はなかなか見つからないのでした。自分自身が経験した御言葉の啓示や解き明かしを教役者に投げかけても、まるで理解できていない。主がニコデモに語ったように「こんなこともわからないのか」と言いたくなりました。しかし自身は、ただ主の恩寵で救われた罪びとでしかない。教役者を批判する立場もない。でも霊においてしっかりしてほしいと心からお願いします。教会の中には、稀に聖霊の熱い取り扱いを受ける礼拝に出くわすことがありました。聖霊の喜びに歓喜する兄姉、啓示や幻を見て語る兄姉。そんな恵まれた教会が世界中に増えることを切に望みます。

1、2節を意訳しますと

JS01 「これらは、生きておられるイエスが彼らに語った隠されたことばである。そしてデドモ、ユダ と呼ばれるトマスはそれらを書いた。そして彼はこう言った。:だれでもこれらの言葉の意味に行きつくなら、彼は死を味わうことがない。」
JS02 「イエスはこう言われた。(隠されたことばを)捜す者を止めてはならない。即ち捜す者は見出すまで、捜すのをやめるな。彼が見出すべきとき、彼は悩まされるだろう。たとえ彼が悩まされても、彼は(左半分の行が欠落を推測:そのことばの真理を知れば)驚かされる。そして彼はすべてを支配する王となるだろう。」

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