神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

天上界の諸相 ~サンダー・シングの見た天 SS12

サンダー・シング~林陽著より

天は大別して三つある。❶第一天は地上天であり、キリストが臨在することから生まれるあの素晴らしい内的平和と歓喜の境地である。

❷第二天は「中有界」であり、十字架上においてキリストが回心した盗賊に告げたパラダイスがこれに当たる。死んだときに第三天に入れるほどに、精神生活において十分な成長を遂げていなかった霊魂たちは、しばらくここに留まることになる。キリストが盗賊に語ったように、彼らはここでキリストとともにいるが、キリストを実際に見るのではなく、あたかも光の波が主から流れ出てくるかのようにその影響力を感じ取り、また、いわば天界の曲を聴くのである。❸第三天は、いうなれば天そのものである。義者はみな、ついにはここに到達するが、サンダーがそうであったように、まだ地上にいるうちから一時期ここを訪問する特権を授かる人々が僅かながらいる。「聖パウロは『自分が体の中にいたのか外にいたのかわからない』と言ったが、わたしにはこの言葉の意味がよく理解できる。自分がそこにいるのを見るとき、わたしは形ある体を持っているように見えるが、それはすべて光でできているのである。だが、体に触れてみても何も感じない。聖パウロは、❹霊の体のことを述べていたのである。天界では、肉眼によってではなく❺霊眼によってものを見る。わたしは、この霊眼が、肉体を離れ去ったあとで、誰もが使うものであるといわれた。」 ~サンダー・シング「聖なる教え」より

実に、初期の段階である❶第一天は、この世界でも体験できます。岩の上に建つ教会ならば、カトリックでもプロテスタントでもそのご臨在を幾分かは感じます。肉体(栄光体)をもって挙げられた主イエスが、霊としてやってきます。ご臨在が強まれば、そこに天が開かれます。

今通っている東京のプロテスタントの大教会は、特別であります。本日の礼拝では、いつもより濃厚で継続した近しい主イエスのご臨在が3階の会堂に満ち、最初の1時間ほどを賛美と祈りと多くの方の預言によって過ごしました。司会者も牧師もすぐに説教には移れませんでした。ご臨在に、天が開いて、涙が出て止まりませんでした。主イエスが右の御手で会衆をひとりずつ引き上げるように見えます。そのあと❷第二天のように十字架のわき腹から出る水と血が、光のように降りそそぎ、一同は悔い改めに導かれました。そのため、預言の賜物のある方たちが一斉に預言し出し、みなが手を挙げて礼拝が続きました。1時間という時間は、少しも長くは感じず、❶一天から❸三天まで会衆が引き上げられるような涙と感動の礼拝でした。そのあとメッセージに入り、終了は遅くなりましたが、天のご臨在を豊かに感得し感謝でした!ハレルヤ!

瞑想の初期の段階からは、❷第二天までは行けるでしょう。❷二天は、緑の牧場のような牧歌的パラダイスです。サンダー・シングの言うように、そこでは神の光が注がれるところです。また、サンダーのように❺霊眼が開かれると、入り口で罪の場面を指摘されますが、幼子の心があれば悔い改めて、この❷第二天まで行くのは可能です。❷第二天に行けば、悔い改めと懺悔の示しがあるでしょう。それをこの世で謝罪するのです。そうすれば、緑の牧場に入れます。❸第三天は、第二天の隠された門より入ることができます。サンダーが言うように、❸第三天には、黄金よりも白い光で覆われた方たちが大勢で礼拝をしています。復活された肉体(栄光体)をもって引き上げられた主が、御座におられます。ハレルヤ!(再臨時には、その栄光体で来られます。すでに肉体を持っている方は、再度この世で受肉はいたしません

❸第三天では、自身の体をまじまじと見たことがない者は、自身が光でできている❹霊体であるとは確認できません。臆病者は、天に昇っても、聖なる雰囲気に畏怖があり短時間で帰ってきてしまうからかもしれません。このままでいると帰れなくなり、この世の使命ができなくなるかもしれないとも思ってしまいます。臆病でない心を祈り求めていきます。

神の国は近づいています。この❸第三天へ引き上げられて礼拝する体験を皆さんにも体験してほしいのです。

「わたしはキリストの中にある一人の人を知っています.十四年前 (肉体の中であるか、わたしは知りません.それとも肉体を離れてであるか、わたしは知りません.が知っておられます)、そのような人が、❸第三の天に奪い去られました。そして、わたしはそのような人が (肉体の中でか,それとも肉体を離れてか,わたしは知りません.が知っておられます)、❷パラダイスの中へと奪い去られ、語ることのできない言葉、人の語ることが許されていないことを聞いたのを知っています。」Ⅱコリント12:2-4(回復訳)

※第一天と第三天の礼拝がつながる!天の礼拝の麗しさ!豊かなご臨在の恩寵!感謝主!栄光在主!

(第三天のイメージ)

f:id:AdonaiQuoVadis:20160807220422j:plain

もう少し整然としている

f:id:AdonaiQuoVadis:20160807190839j:plain

(第一天 地上で現れたご臨在)

f:id:AdonaiQuoVadis:20160807190930j:plain