神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

トマスの福音書4 ~後の者が先になり

継続してトマスの福音書を訳し、解説しています。

4節
*Said-JS04 (this) He-will-delay not,viz-the-man of-oldness in-his-days, to-ask--a-little small-child, he-being-of-seven days, about-the-place of(the)Life, and he-will-live, > for there-are-many first will-become-last, > and they(will)come-to-be one alone. >

4直訳

JS04「イエスは言われた。彼は遅くないだろう、すなわち❶日々を重ねた老人よ、❷7日目のおさな子(単数a little small child)に❸いのちの場所についてたずねることを、そして❹彼は生きるであろう。というのも多くの❺最初の者が最後になるだろうから。そして❻彼らはただ一つになるだろう。」

ここで❶「日々を重ねた老人」と❷「7日目のおさな子(単数)」とが対比されています。70歳の人は25000日以上を生きたことになりますが、生後❷7日目のおさな子に❸生命の場所をたずねよと言っているのはなぜでしょうか。❸生命の場所について❷7日目のおさな子に問うたとしても赤ん坊は何も言わないでしょう。しかし訊ねるのは遅くないと言っています。なぜ「7日目」なのでしょうか。注目すべき聖句があります。
「 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」。(ペテロの手紙第二3:8)
一日を千年と数えると、7日目は7千年です。この年月を生きたのは、神=創造主しかいません。主は、創造の業を終え記念として7日目は安息日とされました。また週の7日目は、土曜日です。❷7日目(安息日)のおさな子とは、誰なのか。マタイ12:8には「人の子は安息日の主です。」とあります。創造主のひとり子イエス様なのでしょう。しかし、なぜおさな子なのでしょうか。それは、胎生される内住のキリストに関係しています。レーマを読み解く10で、お話した内容です。胎生された内在のキリストが、成長していくのです。

 「❷7日目(安息日)のおさな子(内住のイエス=キリスト)に❸いのちの場所をたずねることは遅くないだろう。」ということなのでしょう。ユダヤ教では、安息日を守り、土曜日に会堂で集会をしています。わたしもマタイ12:8から安息日に礼拝をすることが正しいと思っています。そこで❸「いのちの場所」を主に訊ねるのは遅くない~「死が訪れる前に、安息日の主に、それもおさな子であっても、❸いのちの場所を聞け」と言っているようにも思えるのです。
「そして彼(年寄り)は、❹生きるであろう」。いのちの場所をたずねるなら、生きる~❸《いのちの場所》とはいったいどこを指すのだろうか。永遠のいのちのある《天国》といえるか。ここでヨハネ福音書に出てくる、生ける水の話を思い出しました。以下に紹介します。
ヨハネ4:14 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、《その人のうちで泉となり》、❸永遠のいのちへの水がわき出ます。」4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
「その人のうちで泉となり、❸永遠のいのちへの水がわき出ます。」ここに❸いのちの水の場所が「その人のうちで泉となり,わき出る」とあります。
もうひとつヨハネ7:37 「 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の❸《心の奥底》から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:39「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」
ここでは、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」とある。❸いのちの場所は人の❸《心の奥底》にあり,御霊が流れ出るのです。また、「私が道であり、いのちであり、真理である」という聖句もあります。イエス=キリストこそはいのちなのです。
次の句の「というのも多くの❺最初の者が最後になるからだ。そして❻彼ら(多くの最初も最後)も❻ただ一つになるだろう。」とはどういう意味でしょう。
マタイの福音書20章では、『あとの者が先になり、先の者があとになる』という聖句で、終末の刈り入れについて述べています。新改訳では《あとの者,先の者》とあるが,直訳では,それぞれ《最初の者,最後の者》となり,トマスの福音書と同じです。
マタイ20:12「 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と❼1デナリの約束をしたではありませんか。14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
ここで「先の者,あとの者」とは,「先にイエスを信じ主のために働いたと、あとで見出し、働いた者」を指すようです。救いは,恵みであり,先に救われた者は後で救われた者と同じように❼1デナリを受け、働いた時間ではなく、どちらも同じように❼1デナリを受けることができるということを示しています。ここでの報酬❼1デナリは、❸神の葡萄園(=天国)でいただく《永遠の命》なのでしょう。「天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」マタイ11:12と言います。

このような状況下で、後で救われた信仰者は入れないのではないかという心配もあります。ご心配なく。最初の者が最後になり、最後の者が最初に入るのです。

 「❻彼らは、ただ一つになるだろう」とは、ヨハネ福音書17章に同じようなみ言葉を見つけることができます。

17:21「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が❻一つとなるためであります。すなわち、彼らをも❽わたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。22わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、❻彼らも一つになるためであります。23わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、❻彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。24父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、❸わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。」

 ヨハネ伝では、❻彼らを一つにするということは、彼らを❽わたしたち(父と子)のうちにおらせることと言っています。❸わたし(主イエス)のいる所に一緒にいるようにしてほしいとも言っています。

 この4節を言い換えますと、

4意訳

「イエスは言われた。『❶年をとった老人よ。❷7日目(安息日)のおさな子(イエス=キリスト)に❸いのちの場所(天国)についてたずねるのは、遅くないだろう。たずねよ。そうすれば,彼は❸いのちの場所(天国)を見つけて❹生きるであろう。というのも多くの❺最初の信仰者が、最後に天国に入るからだ。そして最初の者も最後の者も共に❻父と子(主イエス=キリスト)のうちに一つになるだろう。」

※最初の者は旧約、最後の者は新約とも言われています。

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