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神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(神の至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

トマスの福音書5① ~面前にある方 FB改

トマス 臨在 祈り ことば(レーマ) 祝福

トマスの福音書解釈の5節から書きます。 
 聖書では聖霊を油や葡萄酒に譬えます。油は身体に塗るもので、身体を光り輝くように覆う主の臨在を表し、飲む葡萄酒は、酒のように腹から熱く湧き上がる聖霊充満の喜びを表すのだと以前に祈りの中で示されました。満たしだけではなく、聖霊様の臨在に浴していると、次々奇跡が起こるのです。この秘訣について、トマス福音書の5節について昔書いたところから抜粋してご紹介します。

5節
*Said-JS05 Know-what-is-in-the-presence of-your(sg)-face ( ),and what-is-hidden to-you(sg), ()will-be-revealed forth> to-you(sg), > (for) no-thing, (---), being-hidden ()will-appear > forth not. > They-asked-him, viz-his- -disciples, said-they to-him this: Do-you(sg)-want that-we-fast? And what is the-way that-we-will-pray?  Shall-we-give-a-lms?  And shall-we-abstain from-what> foods?

5直訳

JS05 「イエスはこう言われた。あなたの面前に何があるかを知りなさい。そしてあなた(単数)に対して隠されているものは、あなたに明らかにされるだろう。なぜなら、何も隠されたままで、あらわにされないものはないだろうから。彼らは彼にたずねた、即ち彼の弟子たちが彼に言った:あなたはわたしたちが断食することをお望みですか。そして私たちは何と祈ったらよいでしょう。私たちは施しをすべきですか。そして私たちは、どんな食物を避けるべきでしょうか。」
 この5節の最初に出てきた「面前にあるもの」とは、何か。
単純に考えてみます。ここで、弟子たちの面前にいるのは、だれでしょう。ルカ12:08には「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます」とあります。「あなたの面前にあるもの」とは、まさに弟子たちの面前で話しておられるイエス様のことでしょう。「あなたの面前のイエス様を認識する(認める)ならば、隠されているものが、あなたに現わされる」と言っているのでしょう。
 最近ある教会でアメリカの牧師の話を聞きました。この牧師は、モーセに現れた「アブラハム、イサク、ヤコブの神」について滔々と述べましたが、深いところまで理解はしていないと思いました。彼は、神が自らを表す名について、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」(アブラハム一家を父から孫までをひとつにまとめて)と言っていましたが、正しくは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と一人ずつそれぞれの神であるように書いてあります。その意味は、「アブラハムは信仰の人、イサクは献身の人、ヤコブは祈りの人」、神は「この3人を愛されたそれぞれの理由があるのだぞ」と暗に示しているようです。つまり「われは、信仰者の神、献身者(自分の命をささげる者)の神、祈祷者の神である」と言っているのです。
 では、それぞれの姿勢はどうだったのでしょうか。アブラハムの長い忍耐の伴う信仰。み声を聴けば、息子を燔祭に捧げようとする従順な信仰。イサクのその命をも捧げようとする献身(イサクはモリヤの山へ向かったとき37歳だったが、父の言うとおりに従順に献身した)。ヤコブのペニエルで一晩中格闘するような祈りと、貪欲なまでに祝福を求める心。アブラハム、イサク、ヤコブは、それぞれ信仰、献身、祈りの姿勢を示しました。ヤコブは神と格闘したこの場所を「ペニエル(神の顔)」創世記32:31と名付けました。またヤコブの別名「イスラエル」原義は(イスラ=~と対する、エル=神)「神と面と向かって対する者」であり、「神とface to faceする者」となります。イスラエルの神とは、「神とface to faceする者の神」となるのです。~これは大変すばらしい啓示であります。
 旧約聖書にも詩篇16:8「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」とダビデが体験していたことを書いています。ダビデは、他の預言者にはないほどの取り扱いを受けた(経験値の高い)預言者でありました。そのダビデが、神と面と向かってその臨在の中に生きることについて語っています。ここに信仰の奥義があります。ここに信仰生活の秘訣があるのです。

 主と恋人のように面と向かって生活するのです。眼には見えなくても、その存在を意識して生活するのです。すると臨在を感じるようになり、主のみ声も聞こえるように変えられます。
 また、聖書では、聖霊について、飲んで喜ばしい葡萄酒と身体に塗る油と表現していますが、聖霊の満たしとは、腹から湧き出る聖霊の喜びとともに、全身を油のように輝く主の臨在がとりまくことも必要なのです。
 いつも自分の前に主を置いたダビデの生き方は、神の祝福を受ける秘訣なのです。私は、この啓示を受けてから、毎日のように奇跡を見、祝福を受けているのは、本当に幸いなことです。
 次に、後半の「あなた(単数)に対して隠されているものは、あなたに明らかにされるだろう。なぜなら、何も隠されたままで、あらわにされないものはないだろうから」の部分から推測していきます。ここは、マルコ4章に同様な節があります。

マルコ4:21-23「また言われた。『あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置く ためでし ょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れている のは、必ず現われる ためであり、おお い隠されているのは、明らかにされるためです。聞く耳のある 者は聞きなさい。』」
マルコでは、「隠されたもの」=「あかり」です。
ここから、「あかり」に注目してみます。

マルコ4:21-23の「隠されたものが明らかにされる」という個所から、燭台の「あかり」は部屋中を照らすものです。枡の下や寝台の下に覆い隠されている状態ではなく、光を高くかかげよと言っています。主イエスの存在を認識し、面前で認めれば、隠されているものはあなたに明らかにされ、明るみに出ないままで隠されてはいないだろうと言っているのです。
 では、隠されているものである「あかり」とは、具体的に何でしょう。次の聖句からその一部がわかります。コロサイ2:3 「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」。つまりこの箇所は、キリストのうちにある「知恵と知識のすべての宝」を示しています。それらが、明るみに出ないままで隠されたままではいないだろうと言っているのでしょう。
 次にいきましょう。「彼の弟子たちが言った:あなたはわたしたちが断食することをお望みですか。そして私たちは何と祈ったらよいでしょう。私たちは施しをすべきですか。そして私たちは、どんな食物を避けるべきでしょうか」。これは文脈からはずれたような突飛な質問です。よく弟子たちは、前の言葉を理解できないまま、日ごろ疑問に思っていることを唐突に質問します。文字通りの単純な質問ですので、そのままにしましょう。
 5節全体を意訳し言い換えると「イエスはこう言われた。あなたの面前に何があるかを知りなさい。それは私です。私がいつもあなたの前にいることを認識しなさい。そうすればあなた(単数)に対して隠されているキリストの知恵と知識との宝は、あなたに明らかにされるだろう。なぜなら、何も隠されたままで、あらわにされないものはないだろうから。弟子たちが尋ねた:あなたはわたしたちが断食することをお望みですか。そして私たちは何と祈ったらよいでしょう。私たちは施しをすべきですか。そして私たちは、どんな食物を避けるべきでしょうか」。
本当に難解な固い食物で、まだもう一つの説明もあります。ここは参考程度にして、トマス福音書5②に続けます。f:id:AdonaiQuoVadis:20160907124241j:image