神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(神の至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

セブンスディ から学ぶ1 ~恵まれた洗足式

 「しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、❶互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、❷あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。」ヨハネ13:15-16
プロテスタントの教会では、なぜ洗足式を行わないのだろうか。
 カトリックでは最後の晩餐の席で、イエス=キリストが弟子たちの足を洗ったことをもとに、毎年、聖木曜日に洗足式が行われています。イエス=キリストが最後の晩餐で足を洗ったのは、12人の男性の弟子たちであったことから、事前に12人の洗足希望者を募ります。イエスの愛とへりくだりについて話し、12の椅子が用意され、賛美する中で、水を注ぐための水差し、たらい、そしてタオルを持った子どもたちと共に、司祭自らが一人ひとりの右足を取り、水差しで水をかけ、足を洗います。
 数年前、セブンスデイ アドヴェンチストという土曜礼拝の教会に何度か寄せてもらったことがあります。この教会では、もう少しイエスの指示に近い形で洗足式を行います。こちらの洗足は、聖書の記述どおり「互に足を洗いあう」ので大変恵まれます。近くにいる同性の人とペアを組みます。大きなポリバケツに水が入っており、そこから柄杓で洗面器に水を汲み、一人がひざまずき、一人の両足を洗い、ペーパータオルで足をふきます。これを❶お互いに行うと、初対面の方が実の兄弟のように思えるから不思議です。喧嘩をしていても心から許せることでしょう。親子で喧嘩をしたときに、そんな状態では喧嘩している奴の足を洗うなんてできないと思えるでしょう。しかし主イエスが「❷あなたがたもするように」と言っているのです。その裏の意味は、「どんな人であったも、その人の足を洗ってあげられる心を持て」という深い意味があるようです。主は、ユダが自分を裏切ることを知っていました。そのイスカリオテのユダの足をも洗っておられるのです。主の御心は、私とは違いなんと寛大で愛に満ちていることでしょうか。「わたしがあなたがたにしたとおりに、❷あなたがたもするように」と言われるイエスの真意がここにあります。お互いに足を洗うことでへりくだり、どんな人も愛の中で受け入れることが大切なのです。

 セブンスディでは、ペアが互いに洗足すればそれで終了します。もちろん教役者も混ざって行っています。ここの洗足式は聖餐式ごとに行われるので大変ですが、主の指示通りに行うべきであります。

 自分には、本当に良い経験でした。洗足式で隣人の足を洗うことは、自分の心が愛に満ちているかどうかを確認する上で、有効なものでした。

 残念ながら、洗足式を行う教会が少ないのはなぜでしょうか。

 歴史の中でゆがめられたり、人間の都合で消えてしまった「主の教え」がたくさんあるのではないでしょうか。主がしなさいと言うことを、やらないでいいとは思いません。そういう意味で、安息日も守り聖書の洗足式を行うセブンスデイは、真理の回復が進んでいると思います。しかし、聖霊の顕現の面からは、その礼拝形式など一般の昔ながらの教会と変わらないのが残念です。短い間ですがご臨在はありましたが、やはり司式に従っているので肝心の「祈りと礼拝」の時間が少ない。使徒行伝のころの誕生したばかりのコイノニアが完ぺきとは思いませんが、本当に神の御心を貫き、イエスの教えそのものを行っている理想の教会があれば教えてほしいです。
 ※洗足式

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