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神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(神の至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

トマスの福音書7 ~人になるか、獣になるか 天に生きよ

トマス ことば(レーマ) 十字架(殉教)

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継続してトマスの福音書を訳し、解説しています。

トマスは、インド宣教をし、達磨(トマ)として伝えられたという話を聞いたことがあります。トマスの福音書は、市販の聖書には入っていない外典です。しかし、福音書の原型である「イエス語録集」であるとも言われています。序文には「だれでもこれらの言葉の意味に行きつくなら、彼は死を味わうことがない」と説明されています。

4年前に書いた文章ですが、若干追記しました。

7節
*Said-JS07 (this) a-blessed-one is the-lion, the-one which the-man will-eat-him; and the-lion -comes-to-be man. > And he-is-cursed, viz-the-m-an, the-one which the-lion will-eat-him; an-d the-lion will-come-to-be man. > And sa-id-he this: does-the-man compare to-a-fisherman wise, the-one who-cast his-n-et to-the-sea; he-drew her up from-the-sea, she-being-full of-fish, little-ones from- -below; > among-them he-fell upon-a-great fish, --good(), viz-the-fisherman wise; > did-he-ca-st the-little-ones all-of-them fish back -own) to-the-sea; did-he-choose the-great -> -fish without-trouble. > He-who-has-ear of -him* to-listen, let-him- -listen.

7節の原文直訳です。

JS07「イエスはこう言われた。人間がライオンを食べるだろう;そのライオンは幸いである。そしてその(人間に喰われた)ライオンは人間になる。そして、彼は禍いである、すなわちライオンに喰われるだろう人間は。そして、その(人間を喰う)ライオンが人間となるだろう。そして彼はこう言った、その人は海に網を投げ入れる賢い漁師と比較する。彼は、下からの小さな魚でいっぱいになった網を海から引き上げた。それらの中で彼は一匹の大きな良い魚を見つけた。良いすなわち賢い漁師は、彼はためらわず大きな魚を選び、小さな全ての魚を海に投げ返した。耳のある者は聞くがよい。また聞かせよ。」

う~ん難解です。
ここでは共観福音書にはない難解なライオンの譬え話をしています。

トマス5節の「すなわち彼の弟子たちが言った:~私たちは、どんな食物を避けるべきでしょうか。」に対する答えなのでしょうか。

人間に食べられるライオンは幸いだ、人間に喰われたライオンは人間の身体の一部になるからだ。ライオンに喰われる人間は禍いだ、人間を喰ったライオンが人間になるだろう。~「人間はライオンになるだろう」とした他の訳もありますが、原文の主語はライオンであるので解釈をまちがえてはいけません。つまり何を食べても、その食べた主(ぬし)が人間なら幸いであり、人間でなければ禍いであるということです。

人間が食べるものであれば、どんなものも、たとえ野獣であろうとも人間という人格のもとに人間の身体の一部になり、幸いであるということです。しかしライオンが人間を食べたら、ライオンという獣が人間の肉を身に着ける。これは禍だ。これは、弟子たちがどんな食物を避けるべきでしょうかとの質問の応答となると思います。

このライオンとは、何を暗示しているでしょうか。聖書では、創世記49:9に「ユダは獅子の子」とあります。強さの象徴です。しかし、ここでは、ダニエル書6章の記事を指しているようです。

紀元前500年頃、ペルシャのダリヨス王はやむなくダニエルを空腹のライオンのいる穴に投げ入れます。しかし一晩経っても、ダニエルは無傷でした。王は『生ける神のしもべ,ダニエルよ。あなたの神は,あなたをライオンからお救いになったか』とさけび ます。ダニエルは『神はみ使いを送られました。そして,ライオンの口をふさいで,わたしに害を加えないようになさいました』と答えます。

王はたいへん喜んで,ダニエルを穴から引き上げるよう命じます。それから,ダニエルを殺そうとした者たちをライオンの穴に投げこませ、かれらは,穴の底まで着かないうちに,ライオンにおそわれ,骨までかみくだかれてしまいます。(ダニエル6:1-28要約)

ここでは、ダニエルのような、神が味方する者になれ。ライオンに食われるような人をおとしいれる悪意の人になるなと戒めているようです。

 次に5節の「私たちは施しをすべきですか」の答えとして漁師のたとえを語っているようです。賢い漁師は、「ためらわず大きな魚を選び、全ての小さな魚を海に投げ返した」とはどういうことでしょうか。聖書に出てくる魚にまつわる有名な個所を挙げてみます。
ヨナ書01:17 「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた」
マタイの福音書17:27「 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい」。
ヨハネ福音書21:03 「シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」
ヨハネ福音書06:09 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
私は、聖書の「魚」の意味を知りたく、半年ほどいろいろな牧師に尋ねてみました。しかし「神の恩寵」だとかうまく当てはまらないあいまいな答えが多く、どれも違うと思いました。その後も祈り求めました。ある日主に祈り求めていたとき、上の聖句から啓示を受け、「魚」が「人の心のあるところ、心を留めているもの=宝」であると示されました。ヨナは、異邦人の悔い改めのために、ニネベに行けという主の命を拒みました。異邦人の都市ニネベに行くことを拒んだため、乗っていた船が嵐にあい、ヨナは海に落ち、大きな魚に飲み込まれました。ここでヨナが心にとめたものとは、自分の思いや信条、頑固な考えでありました。主は、ヨナを魚に飲み込ませたままニネベまで運びました。そしてヨナは、主のために自分の思いや信条、固執した考えを捨て、異邦人であるニネベの人たちを悔い改めに導いたのでした。
 マタイの福音書では、宮の納入金についての下りで、主がペテロに釣った魚の口からスタテル銀貨1枚を見つけて払えと言っています。宮からの使者が納入金を払うように言われたとき、ペテロにはお金がなく、どうしようかと困っていました。その思いがペテロの心をいっぱいにしてしまった。ここで、心にとめたものは、お金でありました。そしてそのお金は、釣った魚の口から見つかり、宮に捧げられました。 

 ヨハネ福音書21章では、イエスが十字架にかかられ復活したあとに、主に会ったのに拘らず弟子たちはガリラヤに戻り漁をします。弟子たちは夜通し漁をしたが、何も捕れなかったのです。ここで弟子たちが心にとめたものは、主に従うために一度は捨てたはずの漁師の仕事でありました。そのあとでイエスが現れ、弟子たちに船の右側に網を下ろすように言うと、153匹の大きな魚が捕れました。ここでの魚は、彼らの仕事を指し、漁師に戻っても何も捕れないということは、空しい仕事であると示しています。しかしイエスの言うとおりに従うと、大量の魚を捕ることができました。その後聖霊を受けた弟子たちは、再び漁に戻ることなく、使徒行伝のように殉教をも辞さない人間を獲る熱い漁師となりました。

 ヨハネ福音書6章では、パンと魚を持ってきた少年の記事があります。この少年は、自分の持っている食糧を弟子たちに持ってきました。それは5つのパンと2匹の魚です。数千人の群衆が空腹を覚えるようなときに、自分の大切な食糧を差し出す少年。この少年は心にとめていた大切な食料であるパンと魚をイエスと弟子たちに捧げたのでした。

    魚は、人が心に留めている宝を指し、それを少年のように捧げることを主は望んでいます。ルカの福音書には、12:34「 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」とあります。小さな魚は投げ返し、1匹の大きな魚を選ぶとは、この世で心を留めている小さい宝を主のために世に投げ返し、本当の大きな良い宝である天国を勝ち取れという意味なのでしょう。
 それをさらに裏付ける聖句は、マタイの福音書13章にあります。13:44 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 この箇所から大きな魚を正しい者、小さな魚を悪い者と見なすこともできますが、天の御国についての個所と合わせて考えると、宝や真珠のように大切なもののために財産を全部売り払うのと同じように、大きな魚のために小魚は投げ捨てよと言っているようです。

 またマルコの福音書09:43「 もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです」とあります。天国のために片手をも切り捨てよという強いみことばのように、◉天国=永遠のいのちであり、それを大きな魚=絶大なる宝でたとえたのでしょう。ルカの福音書では、12:15 「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」とあります。 
 施しについては、以下の聖句が思い当たります。マタイ19:21「 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」。」
 つまり天国に入るために、この世の小魚である財産や世の宝、食物を貧しい人に施し、自分の思いや信条・固執した考え、自分の仕事を神に捧げて、大きな魚=最高の宝である永遠のいのちを手に入れなさいと言っているのでしょう。最後に以下の聖句を再掲します。
ルカ12:34「 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」
 トマスの福音書7節を意訳し言い換えると,

「弟子の質問(どんな食物を避けるべきでしょうか)に対して、イエスは、こう言われた。人間に食べられるライオンは幸いである。人間に喰われればライオンは人間の一部になるからだ。つまり何でも人が食べれば、食べられたものは幸いである。また(人をおとしいれ)、ライオンに喰われる人間は禍である。人間を喰ったライオンは、その人間の肉をからだとするだろう(その人は、獣と同じである)。弟子たちの質問(私たちは施しをすべきですか)に対して、イエスはこう言った。その人は海に網を投げ入れる賢い漁師にたとえられる。彼は、下からの小さな魚でいっぱいになった網を海から引き上げた。それらの中で彼は一匹の大きな良い魚を見つけた。賢い良い漁師は、ためらわず大きな魚を選び、小さな全ての魚を海に投げ返した。大きな魚である永遠の生命を手に入れるために、この世の小さな財産など、すべてためらうことなく投げ捨て施すべきだ。聞く耳のある者は聞くがよい。」
トマス5節にある「わたしたちが断食することをお望みですか。そして私たちは何と祈ったらよいでしょう。」の2つの質問には、ここでは答えていないようです。