神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(神の至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

トマスの福音書8 ~種子まきのたとえ FB改 奇跡24

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継続してトマスの福音書を訳し、解説しています。

8節

* Said-JS08 this: Beho-ld, he-came out, viz-he-who--sows; he-fills-his-hand, he-cast; > did-some, in deed, f all onto-the-road; they-came, v iz-the-birds; th ey-gathered-them; >some-others, they-fell onto-the-rock, and did-not()send-roots(down) to-the-earth, and did-not()send-ears ris-ing to -the-sky. > And s ome-others, they-fell o nto-thorn-s; they-choked the-seed, and did-the-worm eat-them; and did-some-others fall upon-the-earth which-was-good(),and it(m)-gave-fruit up to-the-sky good(); did-he-come 60 per-measure, and 120 per-measure. 

直訳

「イエスは言われた。見よ、彼が来た。即ち種子を蒔く彼が。彼は手をいっぱいにし、投げた。確かに いくつかは道の上に落ちた。それらは来た、即ち鳥が。それらはあちこちから種子を集めた。他のいくつかは岩の上に落ちた。それらは地に根を張らず、天に穂を出さなかった。そして他のいくつかは、いばらの中に落ちた。いばらが種子をさえぎり枯らした。そして虫がそれらを食べた。そして、他のいくつかは良い地に落ちた。そしてそれは天に向かい良い実を結んだ。彼は1粒について60倍や120倍の分量で手に入れた。」

この句は、マルコ、マタイなどの福音書正典とほぼ同じ内容です。しかし正典の福音書ではこの句の説明をイエスご自身がしており、「種子=み言葉」であると説明しています。福音書でこの箇所は、よく未信者が福音を受け入れるか否かをたとえで表しているかのように話されていますが、実は聖書の数あるみ言葉について、それを実現させ実を結ぶために主が示された箇所であると私自身わかったのは、つい最近の経験からでありました。

自分が、この種子まきのたとえをレーマとして理解したのは、2013年の京都での大きな聖会でインドネシアの著名な牧師の集会の最中でした。ひどい喘息を患っていた私は、当時、毎晩咳き込んで目を覚ますような苦しい日々を送っていました。しかしこの聖会で先生が幻視のなかで、「今、首に巻き付いた大きなパイソン(蛇)が切れてはずれるのが見えました。」と言った時に、不思議なことに、喘息特有のマフラーで喉を絞められるような症状が、その場で癒されたのです。首を絞めつけていたマフラーのようなものが取れて、飛び去るのはわかりました。不思議にその日の夜から、毎晩苦しんでいた喘息がなくなり、夜もぐっすりと眠れるようになったのです。エアゾールなどの喘息薬も全部捨てました。それから何年も咳は出ません。完全な癒しの奇跡です。本当に主イエスに感謝しています。

そのころ、マルコ4:3の種子を蒔く人のたとえから、「種子=癒しのみ言葉」をレーマとして心に受け入れていました。

出エジプト15:26「わたしは主、あなたをいやす者である」イザヤ53:5「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ53:4「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」を良い地のように心に受け入れることに徹していたのです。

 ここでの「種子」とは、聖書のみ言葉=神の約束です。それを良い地に蒔き、60倍、120倍に実を結ぶとは、レーマとしてのみ言葉を信仰を伴わせて実現することだと考えていました。この箇所で「種子=み言葉」について調べると、マルコ4:31のからし種の箇所が目につきます。4:31「それ(天国)はからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」                                    

「一番小さい種子=この世的には,実現が難しいと思われるみ言葉」なのでしょうか。そのみ言葉を信じ良い地の心ではぐくみ生長させると,大きな枝をはり天の鳥が木陰に止まるまでになる。またからし種ほどの信仰とは,次のようでもあります。

マタイ17:19 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」                                    

からし種ほどの信仰があったら、山が動く=この世界では、実現が難しいと思われることができる。からし種ほどの信仰とは=種子であるみ言葉を信じ、心に永遠に留め,生長させれば、「どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」と言う解釈です。それは思ったことがすべて実現する「天国」の環境と同じ状態です。

マタイ11:5-6「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」と言われたイエス様。もし、われわれのまわりで盲人が見え、足なえが歩き、らい病人がきよまり、耳しいが聞こえ、死人がよみがえるような奇跡が起きていないなら、「種まきの譬えは、未信者がみ言葉を受け入れる場合の譬えだ」とか説明している暇に、自分の信仰の不足を悔い改めるべきでしょう。このみ言葉の種子をレーマとして良い地(心)に受け取るべきなのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、また、それよりもさらに多くのわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)とあります。これが主イエスの標準です。しかし、この標準にほど遠い現今の群れを見ます。このみ言葉が実現するものだと信じていないような指導者もいるようでは、このみ言葉は、彼らにとってすでに鳥が来て種子は食われ、岩の上で干上がり、いばらの中で虫に食われてしまっています。残念ながら、そんな群れやリーダーが多いのです。机上の空論や議論ばかりで、力ある神の御業をほとんど見れない。力ある福音を現せないなら、良い地の心とは言えません。信仰の不足を悔い改め、み言葉をレーマとして心に植え付けることで、60倍・120倍の救われる者が出てきて実を結ぶようになります。主イエスの標準を求めていきましょう。

福音書のマタイ13:38では良い麦の種子=天国の子 悪い麦の種子=悪い者の子となっています。またパリサイ人のパン種=教えとも出てきますが、このトマス8節での種子とは「み言葉」のことです。

尊敬する大分の牧師 釘宮義人師が同じ箇所を以下のように解釈しています。

日岡だよりNo.583からシェアさせていただきました。

「六、小さな確証を拡大せよ

 こういう小さな確証も又、実に一つの神の「御言葉」でして、このような御言葉を頂いた時、どうぞサタンに奪取されぬよう、又思いわずらいや迫害によって双葉の時に枯らされぬよう、大切な種子として、よき畑で守らねばなりません。(マタイ13:1~23)

  よき畑―――、それは「信頼」です。信頼という土壌の中に埋めておきさえすれば、あとは農夫は何の力もいらぬ。農夫は無為に日夜おき伏しする程に種は成長 する(マルコ四・26~29)。それが神の国の法則です。神の言葉は、しばしば小さき細き声でして、世のいかなる種子よりも小さいカラシ種の如きものです (マタイ13:31、32)。そのカラシ種のごとき小さい信仰の言葉は、カナンの女に言わせればパン屑のごとく(マタイ15:27)、又子供の持っていた 五つのパンの如く(ヨハネ6:9)、取るに足りぬ小さいものであろうが、それを信仰をもって増大すると大いなる結果をうむ。

 人間は不信の徒で す。なかなか百パーセント信じられぬものです。「この山に移りて海に入れと言う時、その言う処が必ず成ると信じて心に疑わないならその如く成るべし。凡て 祈って願うことはすでに得たりと信ぜよ」(マタイ21:・21、22)-この御聖句は実に真理です。しかし、こういう山を移すに山程の信仰を持てというのは、非力なやさ男に二〇〇キロのバーベルを持てというに等しいように思われます。

 然し又一方では「カラシ種一粒の信仰があるならこの山にここ、かしこに移れというとも移らん」(マタイ17:20)とのイエスのお言葉があるのです。カラシ種は、畑にまく時は凡ての種より小さいけれど、育った時は他 の野菜よりも大きくなって樹のごとくなる(マタイ13:31、32)、そして三十倍、六十倍、百倍の実をむすぶ(マタイ13:8)、そのように私共の小さ い小さい信仰(むつかしい問題の時「先生、どうにか信じられるけど、あと二分程疑いが残って不安なんです」などと言ってくる正直な人がいる。二分どころ か、九九%不信で一%しか信じられぬという不信の徒)でも、よろしく、「我信ず、信仰なき我を助け給え」(マルコ9:24)と言って主の足下にすがりなさ い。

 そのような、人間の「信」を見限った絶望の淵に、本当の主にある信仰がわく自分、そういう信仰でいてこそカラシ種のごとく、三十倍、六十 倍、百倍の実をむすんで、山をも移す程の大事を為すのです。このカラシ種のごとき信仰を山程に質量を増大せしめ給う神の国の法則こそ、神を信じるものがこの世に生きていく際の最も実利実効ある福音(即ち力)であると信じます。

 こういう福音的信仰をもって事毎に祈りつづけるのですよ。

 (釘宮義人1974年4月号「神の息よ吹け」より) 」~説明はいりませんね。天国を垣間見た方だとわかります。感謝です。

トマス福音書8節を意訳しますと、

8「イエスは言われた。見よ、種子を蒔く者が来た。彼は手をいっぱいにし、種子を投げた。確かに いくつかは道の上に落ちた。鳥たちが来た。鳥たちはあちこちから種子を集めてしまった。他のいくつかの種子は岩の上に落ちた。それらは地に根を張らず、天に穂を出さなかった。そして他のいくつかの種子は、いばらの中に落ちた。いばらが種子をさえぎり枯らした。そして虫がそれらを食べた。そして、他のいくつかの種子は良い地に落ちた。そしてそれは天に向かい良い実を結んだ。彼は1粒について60倍や120倍の分量で収穫した。(御言葉を聞いても、良い心で受け入れなければ、それは消えてしまったり、枯れてしまい、実を結べない。良い心で受け入れれば、み言葉を成就し、60倍、120倍と実を結ぶ)」

鳥や岩地、いばらについては、福音書で主イエスが説明されています。