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神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(神の至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

死人が生き返る圧倒的な奇跡力 ~弟子たちの殉教の理由

なぜ、イエスの弟子たちは、ローマの迫害の中、命を懸け、最期は殉教すら厭わなかったのでしょうか?

ここに、他の宗教では見いだせないような、信ずるに値する驚くべき事実があったという証拠を知るのです。

【殉教に突き進んだ使徒たち】
ペテロの弟アンデレ:ギリシャではりつけの刑で殉教

バルトロマイ:アルメニアで鞭打ちにより殉教
アルパヨの子、小ヤコブ:イスラエルの神殿で石打の刑で殉教
ゼベダイの子、大ヤコブ:ヘロデにより斬首され殉教
ヨハネ:パトモス島へ幽閉、釈放後老齢で生涯を終える

マタイ:ヒエラポリスで刀で斬られ殉教
ペテロ:ローマで逆さはりつけの刑で殉教
ピリポ:はりつけの刑で殉教
熱心党のシモン:ギリシャで鋸で2つに斬られ殉教

タダイ:アルメニアで斧で撃たれ殉教
トマス:南インドで槍で刺され殉教

イスカリオテのユダ:イエスを裏切り自殺
マッテヤ:ユダの代わりに使徒となったが石打ちの刑の後、斬首され殉教

パウロ:最初は、弟子たちを迫害し、ステパノを殺すときにもそばにいたユダヤ教徒でした。彼は、弟子ではなく、イエスに会ったこともなかった。しかし、復活したキリストに出会い、神の光に打たれて一時盲目になり、その後キリスト者によって癒されます。回心し、自分もキリスト者になり使徒に数えられ、宣教に邁進しますが、ローマで斬首され殉教しました。

*以上、聖書記事や伝承による

弟子たちの殉教の歴史を知ると、原始キリスト教が「本物だったんだなぁ」とわかります。疑い深かったユダヤ人が、ウソ偽りのある曖昧なもののために命を捨てはしません。

彼ら弟子たちが約3年間を一緒に過ごし、目の前で見てきたイエスが、いかに真実な方であり、その事実としての奇跡力を目の前で示していたかがうかがえます。当時彼らが間近で体験した福音書にある記述が、そのまま真実であったからこそ、弟子たちは殉教までも厭わず従っていったのです。イエスの預言通りに五旬節に聖霊が降り、あの弱々しい弟子たちですら、イエスのように奇跡を行うようになったのです。イエスが伝えた救いが、圧倒的な奇跡が伴うものであることが、マタイ伝に示されています。

「イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることを(洗礼者)ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。」マタイ11:4-5(口語訳)

弟子たちは、盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人が生きかえる~その事実を目の当たりにしていたからこそ、殉教の死ですらも厭わずに喜びと思っていたのでしょう。ここに真理があります。

世には、たくさんの宗教があり、キリスト教にもたくさんの派や異端があります。自分を再臨のキリストとかたる者が韓国には40人もいると聞きますから驚きです。しかし、その宗教に盲人が見え、足なえが歩き、死人が生き返るような奇跡があるでしょうか。

原始キリスト教では、死んだ少女やラザロがイエスによって生き返り、3階から落ちて死んだ者もパウロにより生き返っています。

当時、圧倒的な奇跡が起きていました。漁師や取税人、そんな弟子たちが、圧倒的な奇跡を目の当たりにして、殉教まで従う者になりました。

当時だけではない。現代でも、タンザニアの教会などで死人が生き返る奇跡が起きています。

また、敬愛する師も、主の御名により、死人を生き返らせたことがあります。

過去の記事から掲載します。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 塩原聖会参加者の話より~「1960年8月、私(日本基督教団牧師)は聖会に初めて参会した。聖会二日目、滝浴びの最中、小菅さんが倒れ、引き上げられた時には、すでに瞳孔が開いており、チアノーゼが出、脱糞で死んでしまった。その時、伝道者たちが7,8人、一生懸命に祈ったが駄目でした。先生がやってきてフーッと息かけて按手して祈ると、たちまち甦ったのをこの目で見て、本当にビックリした。 中略  ○○館社長が6つの重病から全く癒されたのもこの聖会であった。私の所属していた日基教団の牧師も『聖書にある癒しなどは、昔のことで今はない。』と説教している状況である。しかし、その塩原の聖会で、目の前で死人が蘇生し足萎えが立つ、聖書の生きた事実を見ては、自分が回心して全くひっくり返ってしまった。」~以上証しよりシェアします。

昔も今もこれからも、2000年前と同じ力ある奇跡が、我が主イエスの前で起こり続けているのです。ことばや理屈ばかりの宗教は、大嫌いです。イエスの福音は、その奇跡力にあります。言いわけばかりの宗教は「ただ信ぜよ、信仰によってのみ救われる」と言います。しかし、その肝心の「信仰」があるのでしょうか?何の奇跡も伴わない弟子に対して、主イエスは「おまえたちの信仰がないのはどうしたことか!」と叱りつけることでしょう。真実は、その実を見て判断すべきです。辛子だねほどの信仰があれば山は動くはずです。盲人が見え、足なえが歩き、死人が甦るはずです。

イエス・キリストは昨日も今日も、永遠に同じです。」ヘブル13:8(回復訳)

PS.「なぜなら、あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰を通してであって、これは、あなたがた自身から出たものではなく、の賜物であるからです.」エペソ2:8

救いの基本は、恵みであり、神の賜物です。長血の女のように、なんとしても神に近づき、いただく恵みです。その圧倒的な奇跡が、霊的なエクレシア(教会)にも現れています。

敬愛する師は、「救い、癒やす主は、霊界のキリストであって、自分の霊力や信仰力をたのんではならない」と『信仰と希望』で語っています。しかし、ほんの少しの信仰を持ったなら、なんとしても神に近づき、恵みをいただくのです。 

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