神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

✟十字架 〜神と人への愛に引き裂かれた心臓

祈りの中で示された十字架。

十字架は、愛のクロスだ。縦の木は、父なる神に向かう愛。横の木は、人類に対する深い愛とあわれみ。その二本の木は、ともに強いベクトルとして縦、横に引っ張り合う。縦木は天に向かう愛、横木は、世人に向かう愛。その縦と横の強い愛の引き合いがキリストの心(心臓)を裂いた。十字架の愛は至高の愛だ。

マタイ22:36-40より

「先生、律法の中でどれが大切な戒めですか?」

イエスは彼に言われた、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが大切な第一の戒めである。第二もそれと同じである.『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。これら二つの戒めに、すべての律法と預言者かかっている」。(回復訳)

「On these two commandments hang all the law and the prophets.」
‭‭Matthew‬ ‭22:40‬ ‭KJV‬

二つの戒めに、すべての律法と預言者架かっているのだ。

 

心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛する愛。隣人を自分と同じように愛する愛。この二つの愛が、大きなジレンマとなる。主は、聖なる方、主に向かうなら、義を貫き、聖であるべきだ。しかし、この世を見ると、罪に汚れ病み、死に向かう多くの人、人、人。彼らを救うためには、彼らの罪汚れ病いを負い、燔祭の生贄として、自らの身体と命を献げる愛が湧きおこる。「父よ、彼らをお赦しください.彼らは自分が何をしているのか、わからないのですから」。しかし、罪の燔祭になることは、父の愛や父との関係が切られることだ。「エリ、エリ、レマサバクタニ」。十字架に架けられたキリストの心臓は、二つの愛に裂かれんばかりだ。どうにもならない愛の葛藤。世人の救いのため、父から捨てられ、そんなキリストの心が張り裂けて、心臓が、十字架にクロスした愛のベクトルで引き裂かれた。縦方向の力と横方向の力に引き裂かれた。ローマ兵が槍で突くと、裂かれた心臓のゆえに、体内の血と水が分離して脇腹から流れ出た。

この三次元の世界に生きる者たちにとっても、同様の葛藤を感じることがあります。主なる神に従いたいが、隣人のために成さなければならないことがある。そんな葛藤を感じたことはありませんか?しかし、われわれは、キリストのように、父との関係を切られることはありません。われわれの十字架は、負いやすいのです。

マルコ8章より
8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた、「だれでも❶わたしについて来たいと思うなら、自分を否み、自分の❷十字架を負い、❶わたしに従って来なさい。
8:35 だれでも❸自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、❶わたしのため、また❹福音のために、❸自分の魂の命を失う者はそれを救う。
8:36 人が全世界を手に入れても、❸自分の魂の命を失ったなら、何の益があるだろうか?
8:37 人は❸自分の魂の命と引き換えに、❺何を与えることができるだろうか?マルコ8:34-37(回復訳)

イエスに従ってきたいなら、自分の❷十字架を負えと言っています。❶わたし(イエス)のため、また❹福音のために、❸自分の魂の命を失う者はそれを救うと語っています。

❶主のため、主を愛する第1の戒めのためと、❹福音のため、隣人の救いのため、隣人を愛する第2の戒めのため❸自分の魂の命を失う者はそれを救うと語っています。

そして、見過ごしてはならない、大切な質問をしています。「人は❸自分の魂の命と引き換えに、❺何を与えることができるだろうか?」「Or what shall a man give in exchange for his soul?」Mark‬ ‭8:37‬ ‭KJV‬‬

全世界を手に入れても、自分の魂にはかえられないのに、一体、魂と引き換えに何を与えることができるだろうか?

この質問に実際に答えられなければ、自分の魂は、救えないのかもしれません。

あなたは、自分の❷十字架を負えますか?

主が救ってくださった。それで充分。十字架はイエス様にまかせて....これでは義認までの段階で、幼子のままかもしれません。

❶主と❹福音のために、❸自分の魂の命を失う者はそれを救うと言っているのです。❷十字架は、❶主と❹福音のためのクロスです。❶天の主を愛し、地の世人を愛し、隣人の救いを願い、❹福音のため奔走する。そのために心が引き裂かれんばかりの愛。全世界を手に入れても、自分の魂を失えば空しい。しかし、愛のために自分の魂の命を失うなら、それを救うのですね。天父は、愛のために自分の魂の命をも捧げる心引き裂かれる者たちを待っています。思い煩いではない。愛のゆえに心動くことです。愛が湧いて湧いてしようがない。愛の衝動で奔走するマザー・テレサしかり、ダミエン神父しかり、カナン教会のみなさんもそうでしょう。愛の衝動で、心砕き、神の国を広げていく。それが、主の言う自分の十字架を負うことなのですね。❷十字架を負うとは、天国人の持つ至高の愛を負うことなのですね。助け主なる聖霊さま、慕わしい十字架を、至高の愛を私にも負わせてください。

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たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。Ⅰコリント13章(新共同訳)  

何という御言葉でしょう。アァメン。アァメン。アァメン。

あぁ、何ということか、愛と合一する経験だ。愛が身体に注ぎ込んでくる。キリストは、甘美だ。主の愛が満ち溢れている。