神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

トマスの福音書24④ への備え 〜心の偶像を捨て去れ!

トマスの福音書24④を開示してからも、まだ理解できない方たちが、無理くり偶像崇拝をしているのがわかります。まず神の国とその義を求めるべき内容なのに、この世のことを第一に求めている方のことです。富やお金やこの世の幸福を第一にする方がいて、残念です。相応しくないままでは、恒常的な接触は危険です。やはり、もう一度マルコ伝18章からレーマを紐解き、説明します。

※以下が理解できていない者には、トマス24はわからないでしょう。どうぞご理解ください。

マルコ18:14ー21

14ところで、彼らはパンを持って来るのを忘れ、舟の中にはパン一つのほか、持ち合わせがなかった。

15エスは彼らに命じて言われた、「気をつけなさい! パリサイ人のパン種とヘロデのパン種を警戒しなさい」。

16彼らは互いに論じ合って、「これはわたしたちがパンを持っていないからだ」と言った。

17すると、エスそれを知って、彼らに言われた、「❶なぜ、パンを持っていないからだと、❷論じ合っているのか? あなたがたはまだ❸気づかないのか、❹理解しないのか? あなたがたの心は、❺かたくなになっているのか?

18目があっても❻見えないのか? 耳があっても❼聞こえないのか? ❽覚えていないのか?

19わたしが五つのパンを五千人にさいた時、あなたがたはパンのかけらを、いくつの手かごいっぱいに拾い集めたか?」。彼らは「十二かごです」と言った。

20「わたし七つのパンを四千人にさいた時、あなたがたはパンのかけらを、いくつのかごいっぱいに拾い集めたか?」。彼らは「七かごです」と言った。

21エスは彼らに言われた、「あなたがたはまだ❾理解しないのか?」(回復訳)

ここで主イエスは、❶パンのことなどどうでもいい!❷まだ論じ合っているのか?❸気づかないのか?❹理解しないのか?❺かたくなになっているのか?❻見えないのか?❼聞こえないのか?❽覚えていないのか?❾理解しないのか?~と本当にくどいほど弟子たちに語っています。つまり、とてつもなく大切なことを弟子たちが理解していないことにいら立ち、腐心しているのです。

さて、みなさんは、ここで主イエスが何にいら立っているか❹❾理解していますか?これがわからなければ、天国は遠いのです。

弟子たちに「信仰がないこと?」でしょうか。一部正解かもしれません。「五千人の給食や四千人の給食を見ているのに、忘れたパンのことを論じている」不信仰でしょうか。確かにその通りです。でも、この「❹❾理解」とは、信仰ではないのです。また、❺かたくなで❻見えない、❼聞こえない、❽覚えない、❹❾理解しない~と言っているのです。「おまえたちは信じない、信仰がないのはどうしたことか」とは決して言っていません。❷~❾は、奇跡的事実について認識するための土台がないことを叱っているのです。弟子たちは、この箇所では、イエスが言われたことが最後までわからなかったと思っています。私の知る限り、現代のキリスト教界でも、この箇所を説明できる方が少ないのではないかと思っています。トマスの福音書24を開示し説明しても、理解できないで、この世のことを求め、あれこれ論じている連中が多いのです。

主イエスは、今も❷まだ論じ合っているのか?❸気づかないのか?❹理解しないのか?❺かたくなになっているのか?❻見えないのか?❼聞こえないのか?❽覚えていないのか?❾理解しないのか?としつこいくらいに言いたいはずです。

関連する出エジプト記20:3-4を紹介します。十戒の最初の大切な戒めです。

3あなたはわたしの前で、他の神々を持ってはならない

4あなたは自分のために偶像を造ってはならない.❿上は天にあるもの、下は地にあるもの、地の下の水の中にあるものの、どのような形をも造ってはならない。(回復訳)

※❿この空の上、地上、地下、水中(=この世)でどんな形をも造ってはならないのです。

弟子たちは、いったい何を❷論じていたのでしょうか?「彼らはパンを持って来るのを忘れ、舟の中にはパン一つのほか、持ち合わせがなかった」ことです。彼らは、イエスが七つのパンで、四千人の給食を行った一大奇跡を目の当たりにした後、「パンを忘れた、パンが一つしかない」とこの世(三次元)の発想をしたのです。

この世の発想は、いつも固定観念に囚われた心から来ます。固定観念とは、心に像を「形造る」ことです。「手元の一つのパンでは、みんなが満腹にはならない。せいぜい二人が食べればなくなってしまう」~そんな形(偶像)を造ってしまうのです。弟子たちが目を向けたのは、「持ってくるのを忘れたパン」と「今持ちあわせているパンひとつ」でした。それは、彼らの偶像です。彼らが見つめていたのは、この世にあるパンです。

しかし、主イエスが見つめるのは、YHWHであり、YHWHの前で、他の神々(偶像)を持ってはいないのです

YHWHとは、「在りて有る」方です。五つのパンしかなくても、五千人を養う「在りて有る」方です。

五千人の給食を、あれこれ計算して本当だろうかと悩む人がいます。この奇跡では少量の食物で五千人が満腹し余るような、物理的には頭を抱えてしまう奇跡が行なわれたのです。それも四福音書に共通して書いてある実際に弟子たちが見た印象的な奇跡だったはずです。そして、この解き明かしは、ヨハネ伝6章でイエス自らが答えています。

エスは彼らに答えて言われた、『まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.あなたがたが⓫わたしを捜し求めるのは、しるしを見たからではなく、⓬パンを食べて満腹したからである。 ⓭朽ちる食物のためにではなく、⓮永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい.⓯これこそ、人の子があなたがたに与えるものである.それはに、なるが⓰証印を押されたからである』。」(ヨハネ6:26-27 回復訳)

 主イエスの奇跡の中には、無から有を生じる奇跡がありました。これは、世人には不思議で、カナの婚礼での水をぶどう酒に変える奇跡のように、三次元の常識を超越するものでした。この聖書箇所では、 五千人の給食をあれこれ計算し考えてしまうくらい、不思議な奇跡をおこなっています。ここで群衆がイエスを⓫探し求める行為は、まさにご利益信仰で、群衆がこの世的にパンを食べ⓬満腹したからにほかありません。朽ちるこの世の食物についての奇跡をあれこれ考えることについてイエスは、⓭朽ちる食物を考えるな⓮永遠に至る永存する食物を求めよと言っています。それは、「この世的な⓭朽ちるパン(ことば・考え)を捨て、⓮永存する天国の食物(天のことばや考え)をもって考えるようにしろ、そのために労せよ」と言っているのです。先に話したように三次元世界の物理的な食物(ことば・考え)を求めては、⓮永遠の食物(天のことばや考え)、天的恵みやイエスの言葉の真意を得ることはできないし、理解できないと言っているのです。つまり⓯これこそこの世(三次元)の考えを超越した「⓮天国(高次元)のみことば・考え方」であり、⓯人の子(イエス)があなたがたに与えるもの(食物)であると強調されている奇跡なのです。父なる神がイエスに⓰証印を押されたように、天に入る証印を得て「この世の考えでなく、天の考えだけで生きよ。」とおっしゃっているのです。主イエスは、世人と違う土台で考え、この世と異なる土台にいらっしゃり、⓭朽ちる肉の食物のことなど考えるな、天的な食物をまず考え求めよと言われているのです。

 この奥義がわからない者は、いつまでも「5つのパンはどうやって配った」とか「こんなはずはない」と計算高くあれこれこの世の基準で考え、天国の基準を見ることができないのです。船上でパン種について話されたとき、あれこれこの世の感覚で議論する弟子たちを叱ったように、そんな者たちを「❹まだ理解しないのか」(マルコ8:17)と叱っているイエスの姿が目に浮かびます。

 主イエスは、地上の見えるものによらず、天国に生きていました。

それを示すように、次の⓮永遠の命に関わる大切なみ言葉につながっていきます。

あなた方は⓭この世に属しており、わたしはこの世に属していない。それであなた方は自分の罪のうちに死ぬ***『⓱わたしはある』を信じなければ、あなた方は自分の罪に死ぬ」(ヨハネ8:23-24 原文校訂口語訳)

エスは、まさに神のひとり子。イエスこそ⓱無から有を生み出す神と一体になった方であると確認できるみ言葉です!この一連の給食の奇跡は、まさに弟子たちに天の現実や信じて願うことが実現する天の法則の理解を諭し導くためのものでした。ハレルヤ!

 まだ理解しがたいでしょうか。

敬愛する師は、「頭でいろいろ考えるなら、天は閉じてしまいます。西洋の教条主義に陥ったら、もう信仰はない。わかって信じようとしたら、キリストはわからない。キリストとともに歩いて、やっとそれから体験でわかるのだ。啓示的真理は突然開かれるのです」と話していました。

まず、永遠の生命を求めることです。神の国と神の義を第一に求めることです。 この世のものを求めていては、開かれません。一番大切な神の国と神の義だけを考えることが、❹❾まだ理解しないのか?とくどいように問いただした主イエスの真意です。

あなたは、まだこの世のことを心で論じていますか?だとしたら、あなたの心は、この世のものでいっぱいです。あなたの心をこの世のイメージ(像)で満たしているなら、天国は遠いのです。あなたの心を天国のYHWHだけでいっぱいにするとき、全てが添えて与えられます。無から有が生じ、パンも出てくるのです。しかし、基本はYHWHだけを求めて、天国のイメージに浸かるのです。最早、この世のイメージは、きれいに捨て去ることです。

自身も、まだ理解しないのか?と言われないように実践したいのです。

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