神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

ビル ジョンソン師 ~悔い改めへの助言2

「天が地に侵入するとき」よりLet me share.

エスは、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい」(マタイ福音書16:24)と言われました。多くの人々はこの召しを誤解し、イエスにあって自己否定の人生を歩みつつ、イエスの力に満ちた人生を知ることがありません。彼らにとって、十字架の歩みとは、喜びのない砕かれた状態を言い、そしてそれを十字架のしるしとして耐え忍ぶことによって、罪の性質を十字架に着けようとしています。しかし、私たちは、復活によって力づけられた生き方、最善の人生をイエスに従って生きなければなりません!

殆ど全ての宗教には、自己否定、自己卑下といった十字架の歩みの模倣が見られます。人は宗教的な修業を積んだ者を尊敬し、断食を称賛します。また、個人的な霊性のために貧困に甘んじることを良しとし、病苦を忍ぶ者を称えるのです。そんな彼らに私たちが、人生を変革する神の力を伴う喜びに満ちた人生を示せるなら、彼らはそれを賞賛するだけではなく、あなたのようになりたいと、望むでしょう。宗教には、罪と地獄に打ち勝った、甦りの人生を模倣することはできないのです。

二流の十字架を信じる人は、自分の内側ばかりを見つめたり、自ら苦難を求めたりします。

十字架は自分で適用するものではありません。イエスもご自分の手で、自らを十字架につけたのではありません。この偽りによって欺かれているクリスチャンは、常に自分の弱さについて話してばかりいます。悪魔は私たちが悪については関心がないとわかると、次に私たちが自分には価値がない、能力がないと思い込ませることに焦点を当ててきます。これは、人々がリバイバルを求めて神の前に深く打ちひしがれた様を見せる祈り会で、よく見られるものです。彼らはしばしば、真の謙遜を求めて、既に処理された古い罪の再告白をするのです。xxxxxx

もし、「私自身」がその中心となり、自分の弱さばかりを口にするなら、それは謙遜をまねたプライドに陥るでしょう。「本当に私はふさわしい者ではない・・・」というような言葉を繰り返すなら、それは神の素晴らしさの宣言に取って代わってしまうのです。自分の不義に自らを売り渡すことによって、敵は私たちを力ある奉仕から引き離すことに成功するのです。自分を内省することによって、霊的な自尊心が増し加えられるとしたら、それは、真の聖さではなく、その代わりに福音の力を表わしていく効果は、減少していくのです。

真の弱さとは、神に完全に拠り頼むことです。周りの状況に福音の力を解放していくために私たちは徹底して、神に従うより他はないのです。~以上、ビル ジョンソン師の話より。敬愛する師と同じことを言っていました。自分を見ているから、いつまでも自分を十字架に着けて...を繰り返しているのです。内省し自分に何もないと悔い改めてばかりでメソメソしている者は、まだ自分を見ているのです。父は、そんな弱い人間を良くわかって、助け主である聖霊を送ってくださったのですね。

真の弱さとは、自分を見てクヨクヨすることではなく、主の贖いを受け入れ神に完全に拠り頼み大胆に生きることですね。

「するとはわたしに言われました、「わたしの恵みは、あなたに対して十分である.わたしの力は、弱さの中で完全に現れる」。ですから、わたしはむしろ自分の弱さを、大いに喜んで誇りましょう.それはキリストの力が、わたしの上に幕屋を張るためです。」Ⅱコリント12:9

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