神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

イエスのピスティスで生きる2 〜敬愛する師26

〜敬愛する師の話〜

「22それは、❶イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。

23すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
24彼らは、価なしに、神の恵みにより、❷キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 」ローマ人への手紙3: 22-24(口語訳)

「それは」と言うのは神の義です。神の義とは何かと言うと、律法による義ではなくて、イエス・キリストの信仰による神の義です。ここに、「❶イエス・キリストを信じる信仰による」と訳してありますが、「信じる」と言う語は原文にありません。正しくは、「δια πίστεως  Ιησού Χριστού イエス・キリストの信仰による」です。パウロが、「❶イエス・キリストの」信仰、という時のギリシャ語の用法(所有格を使う)は、一種独特でして、「❷イエス・キリストにある」と言う意味なんです。それは、❸キリストとの生ける交わり、霊なるキリストとの神秘的な交わりを言い表しているんです。ダマスコ途上での回心依頼、パウロを救い続けたのは生けるキリストでした。パウロにおいて信仰とは、目的語として対象化したキリストを信じることでなくして、霊なるキリストとの交わりから生まれてきたものです。ですから、パウロの信仰的自覚は、❹生けるキリストに捕らえられ、奴隷とされ、所有されていると言う体験でした。

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「❷キリストにある」と言うことは、「❷キリストの中にある」と言う意味です。すなわち、私たちがキリストから外れていれば義とされません。それで「義とされる」と言うことはどういうことかをわかるように、いろいろ書いている。パウロは親切です。パウロにとっては、「❷ένα Χριστω キリストの中にある」ことが重要なんです。これはパウロ特有の用語でして、❸生けるキリストとの霊的な交わり、ありありとキリストに抱かれ合一して生きることの表現です。パウロは、キリストを過去の人物として信じたのではありませんでした。現に聖霊として生けるキリストに出会って回心し、その臨在下に彼が生かされました。霊なるキリストは絶えずパウロに迫り、抱きしめ、彼に内在して語り、奇跡を行わしめられた。このキリストを、パウロは全世界に運びました。ですから、「❷キリストの中にある」現実こそ、パウロにとってそのまま救いであり、贖いであり、義とせられる経験でした。このことを忘れてはなりません。(1969年5月15日)

〜以上〜

パウロの信仰的自覚は、❹生けるキリストに捕らえられ、奴隷とされ、所有されていると言う体験でした。それが、パウロにとって救いであり、贖いであり、義とせられる経験となりました。一言で言うと、「❷キリストの中にある」現実を生きることでした。それは、具体的にどういうことなのでしょうか?

鍵は、ここにあるようです。❸キリストとの生ける交わり、霊なるキリストとの神秘的な霊的な交わり、ありありとキリストに抱かれ合一して生きることがパウロや敬愛する師が見出したキリストのピスティス(キリストの信実)なのですね。イエス・キリストの御霊を感じ、助け主に動かされながら生きたいのです。

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