神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

敬愛する師28 〜聖霊の臨在

〜敬愛する師の話〜

キリスト教信仰の極致は「キリスト教の神秘な霊的が合一」にある。これは愛における合一である。神は沈黙の神である。人の目に見えぬ、隠された神であるとは言え、キリストは霊的大実在である。人間をご自身に引き寄せんとして、霊の力を藉(か)し、また霊の中にご自身を啓示し給う。霊的意識において私たちは神の膝下に立ち、霊眼をもって神と対座する。「ただ独りの神の前に、ただ一人にて立つ」とき、主のいつくしみの御瞳は私の眼の中に映り、わが眼はただ主の御瞳の輝きに吸い込まれている。「我もなく、世もなく、ただ、主のみ在せり」の心境である。しかし、「神を知り、むしろ神に知られたる」喜びに大いなる平安がある(ガラテヤ書4:9)。「神的な愛の場」にある内的経験こそ、キリスト教信仰の本地である。この霊的な結合をダイスマンはこう言っている。「あたかも私たちが呼吸する空気のように、私たちの中にキリストがあって、私たちを充たし、また同時に、キリストの中に私たちが在って、これを呼吸しているわけである」と。このような神秘な意識を可能にするものは、実に「主が私たちに与えたもうた御霊によって」である。

霊とは一般人の考えるような人間の心理的要素ではない。霊は人間と異なる独立の人格であり、光り輝く、天的な不朽の体である(コリント前書15章)超自然的な力であり、超越的な性質を持つ生き物である。しかも、人間と独立して存在する別個の神秘的人格である。霊には、良い霊もあれば、邪悪な霊もあり、種々雑多である。災禍を醸し、病気の原因となる悪鬼や妖怪の霊もいる。動物霊や植物の精もある。全地を惑わす大サタンもいる。しかし、私たちキリスト人に賜わる霊は、迷謬の霊ではなくして、真理の 霊である(ヨハネ第1書4:6)。この御霊の本質は愛であり、この愛に育まれて、永遠の生命を領するに至る。またこの御霊が与えられて、私たちは神の神秘に参与し、神的な奥義を認知する力も与えられるのである。

****中略****

御霊の顕現によって私たちは、哲理を弁え、霊的知識を持ち、信仰も得るものである。また神癒の医力を得、奇跡的な力を発揮し、預言し、霊を弁別し、異言を語り、異様な霊言を解釈する力をも得るのである。かような、超物理的な潜勢力を有つ霊が、私たちキリストに属する者には賜わるのである。私たちを通してキリストの霊が作用するからである。〜以上〜

f:id:AdonaiQuoVadis:20180405002735j:image