神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

トマスの福音書42① 〜通り過ぎる者になれ

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継続してトマスの福音書を解説し、意訳しています。

42節前半

*Said-JS42 this: come-into-being as-you(pl)-pass-away.

42前半直訳

JS42 イエスはこう言った:あなたたちは、❶通り過ぎるような存在になりなさい。

 

トマス 42節のキーワードは、❶「 通り過ぎる」です。これは、共観福音書の中に出てこない言葉です。しかし、コプト語❶παραγειν(通り過ぎる)は、ユダヤ人にとって大切な出エジプトのפָּ֠סַח  ( pass over「❷過ぎ越し」)を連想させる語です。

❷過ぎ越しとは、出エジプト記にある言葉で、初子の死という10番目の災がエジプト人に臨みましたが、その災は入口に子羊の血を塗ったイスラエルの民の❸家を❶通り過ぎたことに由来します。このことを記念した祭が❷過ぎ越しの祭です。また、ほどなくイスラエルの民は、❸住んでいた家を捨ててエジプトを脱出したのです。エジプトは、食物や生活用品にあふれた「この世」を象徴します。❷過ぎ越しpass overとは、まさに災を❶過ぎ越し、生活するには便利なエジプトの安住の❸棲み家を捨てて、出エジプトすること=この世からの脱出を暗示する言葉なのでしょう。

この後、イスラエルの民は、荒野で40年間彷徨う仮庵生活を送ったのです。

出エジプト記‬ ‭12章7〜13節

7その血を取り、小羊を食する❸家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。******

12その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。

13その血はあなたがたのおる❸家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を❷過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。‭(口語訳‬‬)

 

また、新約聖書学者でグノーシス主義研究者の荒井献 氏は、トマスによる福音書のこの箇所で、北インドの町ファテプル・シークリー(Fatehpur Sikri)の城門アーチに刻まれた刻文を紹介しています。

「マリアの息子、イサ(イエス)は言った:『この世は橋である。/❶渡って行きなさい。/しかしそこに/❸棲家を建ててはならない』。」が紹介されています。

"Isa (Jesus), son of Mary said: 'The world is a Bridge, pass over it, but build no houses upon it."

 

私訳ですが、「世は橋であり、それを❶通り過ぎよ、しかし、その上に❸家を建ててはならない」とあります。この言葉は、トマスのように初期の宣教をした者たちが伝えた主イエスの言葉なのでしょうか。この世の人生は、橋を❶通り過ぎるようなもので、そこに❸棲み家を建ててはならないということでしょう。主イエスもマタイ伝で「人の子には、❸枕するところがない」(マタイ8:20)と言っていました。

しかし、このインドの刻文には、続きがありますので、紹介します。

"He who hopes for a day may hope for eternity, but the World endures but an hour. Spend it in prayer for the rest is unseen."

「一日だけを望む者は、永遠を望むかもしれない。しかし、世界は一時間だけ耐えられる。祈りの中でその時を過ごせ。世(橋)の残りは目に見えないからだ。」

これは、「この世では、一日一日を望んで生きる者は、永遠の時をも期待するかもしれないが、この世には一時間(ほんの少しの時間)しか残されていない。その一時間を祈りの中で過ごしなさい。人生(橋)の残りは目には見えないからだ」と言っているのでしょうか。

以上を参考に、42節を意訳してみます。

42前半意訳

JS42 イエスはこう言った「あなたたちは、この世では(橋を)❶通り過ぎるような存在になりなさい。(この世に❸安住の棲み家を建ててはならない。この世にはほんの少しの時間しかない。その一時間を祈りの中で過ごしなさい。人生の残り時間は見えないからだ)。」