神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

中国教友の熱さ2 〜王牧師の声明

キリスト新聞の記事に拘束された秋雨聖約教会の王牧師の声明があり、その声明文は私達の信仰にも火を注ぐ熱さに溢れています。シェアさせてください。

 

〜キリスト新聞記事より〜

国家政権転覆扇動罪」の嫌疑で逮捕・拘留された中国・四川省の家庭教会(非公認教会)・秋雨之福聖約教会の王怡(おうい、Wang Yi)牧師が、かつて不服従の理由について綴っていた声明を、逮捕後48時間を経た12月11日、同教会が公表した。全文は以下の通り。


「私の声明:信仰的不服従

 聖書の教えと福音の使命に基づき、私は神が中国にお立てになった権力者を尊重する。なぜならば、王を廃するのも王を立てるのも、みな神がなさることだからである。それゆえに、私は中国の歴史と制度に対する神の御計画に従う。

 キリスト教会の一牧師として、私は聖書に基づきながら、社会・政治・法律などの諸領域に関して何が正義ある秩序であり、何が善なる統治であるかという自分自身の理解と見解を持っている。同時に、私は中国共産党政権の教会迫害や、人々の信仰の自由・良心の自由を奪う罪悪に対して、大きな嫌悪と怒りを覚えている。しかし、社会制度や政治制度を変革しようとする一切のことは私が召された使命ではなく、また福音を与えられた神の民が目的とするところでもない。

 なぜならば、あらゆる現実の悪、政治的不正義、恣意的な法律は、すべての中国人が必要としている唯一の救い、すなわちイエス・キリストの十字架を指し示しているからである。またこれらのことは、真の希望や完全な人間社会といったものは地上のいかなる制度や文化の変革の中にも存在せず、ただ人間の罪がキリストによって赦され、永遠の希望を得るというところにしか存在しないことを示している。

 牧師としての私の、福音に対する確かな信仰、人々に対する指導、またすべての罪悪に対する非難はいずれも、福音におけるキリストのご命令に基づくものであり、栄光に満ちた王である方のはかり知れない愛に基づくものである。すべての人間の命はこのように短きものであり、それゆえ神は教会に対して、悔い改めたいと願うすべての人を悔い改めへと導き、召し出すようにと、強く命じておられる。キリストは罪から立ち返るすべての人を、速やかに、そして喜んで赦そうと願っておられる。これこそが教会が中国においてなすべきすべての働きの目的である。すなわち、世界に対してキリストを証し、中国に対して天の御国を証し、地上の短き人生に対して天上の永遠の人生を証しすることである。このことは、私自身に与えられた牧師としての召命でもある。

 以上の理由により、中国共産党政権が神がお許しになられた一時的な統治者であることを、私は受け入れ、尊重する。主の僕であるジャン・カルヴァンが「悪しき統治者は悪しき人民に対する神の裁きである」と述べているように、その裁きの目的は、神の民が神に向かって悔い改めるよう促されるためである。それゆえに、主の教えと鍛錬に従うのと同様に、私は体において彼らの法の執行に喜んで従う。

 私はまた、教会に対する中国共産党政権の迫害が極めて悪しき犯罪行為であると考えている。キリストの教会の牧師として、私はこのような罪悪に対して厳しい非難を公にしなければならない。私に与えられている召しは、非暴力によって、そして平和と忍耐の内に、聖書と神に反するあらゆる人間の法律に敢えて背くことを私に求めている。私の救い主キリストも、悪法に背くことで被るあらゆる代価を喜んで受け入れるようにと、私に求めておられる。

 しかしだからといって、私個人と教会の不服従という行為が、どのような意味でも、権利擁護運動や市民的不服従の政治運動では決してない。中国のいかなる制度や法律を変革しようという意図は私には全くないからである。牧師として私が唯一関心を向けていることは、信仰による不服従であり、それによって、罪悪に満ちた人間の本性が揺り動かされ、キリストの十字架が証しされることである。

 牧師としての私の不服従の行為は、福音の使命の一部である。キリストの大いに宣教するようにという大宣教命令は、この世に対して大いに不服従することを私たちに求めておられる。不服従の目的は、この世界を変革することではなく、もう一つの世界を証しすることである。

 なぜならば、教会の使命はただ教会となることであり、いかなる世俗の体制であれ、その一部となることではないからである。消極的に言うならば、教会は自らをこの世から区別し、自らが世俗の体制の一部となることを避けなければならない。積極的に言うなら、教会のあらゆる行動は、この世に対して、もう一つの世界が真に存在することを証明することに努めるべきである。福音と人間の良心に関する事柄においては、神にのみ従うべきであり、人に従うべきではないことを、聖書は私たちに教えている。したがって、信仰的不服従と肉体的忍耐は、もう一つの世界ともう一人の栄光の王を証しする方法なのである。

 これが、私が中国のいかなる政治制度や法律制度の変革にも興味がなく、さらには中国共産党政権の教会迫害政策がいつ変わるのかということにも興味がない理由である。自分が現在の政権下で生きるにせよ将来のいかなる政権下で生きるにせよ、もし世俗の政府が教会を迫害し続け、神にのみ属する人間の良心を傷つけるならば、私は信仰的不服従を続けるだろう。なぜならば、神が私に与えられた使命のすべては、ただ私のすべての行動を通して、より多くの中国人に、人類と社会の希望はただキリストの救いと神の超自然的恵みの支配にのみあることを知らせることだからである。

 もし神が、中国共産党政権の教会に対する迫害を通して、より多くの中国人を前途に対して絶望させ、信仰的な幻滅と荒野を経験させるように導き、そしてそこからイエスを知るにようにさせ、さらには神ご自身の教会を絶えず鍛錬し建て上げることを決心なさるのならば、私は喜んで神の御計画に従う。なぜならば、神の御計画は常に慈しみ深く、良いものだからである。

 まさに私のいかなる言動も、社会や政治の変革を求めたり期待したりしているわけでは決しないからこそ、私はいかなる社会的・政治的権威に対しても恐れる心がない。神が立てられた政府の権威は悪を行う者を恐れさせるものであって、善を行う者を恐れさせるものではないからである。イエスを信じる者は悪を行わないだけでなく、暗闇の権威をも恐れるべきではない。私は常に弱き者だが、これこそが福音の約束であり、私が全身全霊で中国社会において伝えねばならない良き知らせであると心から信じている。

 これこそまさしく、中国共産党政権が同政権を恐れない一つの教会に対して大きな恐れを抱いている理由であることも、私は知っている。

 もし私が長期間であれ短期間であれ拘束されることが、権力者が私の信仰と私の救い主に対して抱いている恐れを軽減させる助けとなるのであれば、私は喜んでこの方法によって彼らの助けとなることを願う。しかし私は知っている。教会を迫害する罪と悪に対して否と言い、また平和的な方法によって不服従をする時にのみ、私は真に権力者と法の執行者の魂を助けることができるということを。神が私を用いてくださり、身体の自由が奪われるという方法によって、私の身体の自由を奪ったそれらの人々に、彼らの権威よりもさらに高い権威の存在と、彼らによって拘束されることのない自由とが、死んで復活なされたイエス・キリストの教会に満ちていることを伝えられるようにと願う。

 この政権が私に対してどのような罪名をつけようとも、またどのような中傷を浴びせようとも、もしその罪名が私の信仰・著作・言論・伝道の行為に対して向けられるものであるならば、それは単にサタンによる虚偽か試みにしか過ぎない。私はそれらをまとめて否認し、刑には服しても法には服せず、処刑されたとしても罪を認めることはしない。

 また、次のことも指摘しておかねばならない。主の教会と、イエス・キリストを信じる中国人とに対する迫害こそが、中国社会の最も邪悪で、最も恐ろしい罪悪である。これはキリスト者に対する犯罪であるというだけでなく、すべての非キリスト者に対する犯罪でもある。なぜならば、政府は暴力的にかつ残酷に彼らを脅迫し、彼らが主イエスの御前に行くのを阻んでいるのであり、この世でこれより大きな罪はなく、悪の極みである。

 もしいつの日か、この政権が神ご自身によって転覆させられるとするならば、その原因はこれら一切の罪悪に対する正義の裁きと報いにほかならない。というのも、かつてこの地上には千年にわたる教会はあっても、千年にわたる政権はないからである。ただ永遠の信仰があるのみであり、永遠の権勢はない

 私を拘束する者は、終わりの日に天使によって拘束されるだろう。私を裁く者は、終わりの日にキリストによって裁かれるだろう。このことを考える時、主は私に、私を拘束することを計画し実行している者に対する大きな同情と悲しみを抱かずにはおれなくさせられる。主が私を用いてくださり、私に忍耐と知恵を与え、彼らに福音をよく伝えることができるようにと願う。

 この世の権力者は、私を妻子から引き離すこと、私の地位や名誉も奪うこと、私の家庭を破滅させること、これらすべてをすることができる。しかし、私に信仰を捨てさせること、私に人生を変えさせること、私を死の中から復活させること、これらのことを地上の誰もすることはできない。

 だから、尊敬する官吏の諸君、悪を行うことを止めなさい。それは決して私の益のために言っているのではなく、あなた方とあなた方の子孫の益のためである。私はあなた方に〔迫害の〕手を止めるようにと切に勧める。どうしてあなた方は、私のような小さな罪びとのために、永遠に沈みゆく地獄の代価を払うことを願い出る必要などあろうか。

 イエスはキリストであり、永遠に生ける神の御子である。彼は罪びとのために死に、私たちのために復活された。昨日も、今日も、そして永遠にいたるまで、イエス・キリストは私の王であり、全世界の主である。私は主の僕であり、そのことのゆえに囚われている。私は神に歯向かう者に対して、柔和に歯向かうだろう。私は神に従わないどのような法律にも、喜んで不服従を貫くだろう。

2018年9月21日初稿,10月4日修正。
(拘束されて48時間後に教会より公開発表すること)

附:信仰的不服従とは何か

 聖書はいかなる政府部門に対しても、教会を管理したりキリスト者の信仰に干渉したりする権威を与えていない、と私は堅く信じる。したがって、聖書は私に、平和的な方法で、柔和な反抗と積極的な忍耐の内に、喜びに満たされて、教会を迫害し、キリスト者の信仰に干渉する一切の行政的・司法的措置に抵抗することを要求している。

 これは一種の信仰的不服従の行動である、と私は堅く信じる。教会を迫害し福音を拒む現代の全体主義国家において、信仰的不服従は福音伝道の不可避的な一部である。

 信仰的不服従は一種の終末的行動であり、一時的にしか存在しない罪悪の国において、永遠の神の国を証しすることである、と私は堅く信じる。不服従をするキリスト者は、十字架の道と方法によって、かつて十字架にかかられたキリストに倣う。平和的な不服従は、私たちがこの世を愛する方法であり、また私たちがこの世界の一部になってしまうことを避ける方法でもある。

 この信仰的不服従を実践する時には、キリストの恵みと復活の力により頼まねばならず、また踏み越えてはならない以下の二つの限界線に従って行うことを聖書が私に求めている、と私は堅く信じる。

 第一は、内なる心の限界線である。肉体に対する愛ではなく、魂に対する愛こそが信仰的不服従の動機である。環境の変革ではなく、魂の変革こそが信仰的不服従の目的である。いかなる時であれ、もし外的な圧迫や暴力が私の平和と忍耐を奪い去り、教会を圧迫しキリスト者を辱める人々に対する怒りや苦い感情を私の内なる心に抱かせるようになったならば、それは信仰的不服従の失敗である。

 第二は、行為の限界線である。福音は信仰的不服従が非暴力でなければならないことを要求している。福音の奥義は、身体的に抵抗することに替えて、進んで苦しみを受け、不義なる刑罰を甘んじて受け入れることにある。平和的な不服従は、愛と赦しの結果である。十字架は、苦しみを受ける必要のないところで苦しみを受けることを願うことを意味している。なぜならば、キリストは抵抗できる無限の力をお持ちでありながら、すべての屈辱と痛みを耐え忍んで受けられたからである。キリストに抵抗するこの世に対してキリストご自身が抵抗された方法は、十字架において、彼を殺そうとしているこの世に向かって、平和のオリーブの枝を差し伸べることだった。

 キリストが、福音を拒み教会を迫害する政権の下で私を召し出されたのは、生涯をかけて奉仕する中で信仰的不服従を実践するためであると、私は堅く信じる。これは私が福音を伝える方法であり、私が伝える福音の奥義でもある。

主の僕・王怡

(訳:松谷曄介=日本基督教団筑紫教会牧師)

 

出典:キリスト新聞

http://www.kirishin.com/2018/12/18/21622/