神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

霊眼が開かれるとき1〜サンダー・シングSS24

東洋の聖フランシスコとよばれたインドの聖人サンダー・シングは、その著書「霊界の黙示」の中で、霊の目が開かれたときのことについて語っています。

サンダー・シングの話

 14年前、コトガルで❶祈りを捧げている時、天上の幻に私の目が開かれた。❷何もかもあまりにも鮮やかに見えたので、自分が死んだに違いない、そして自分の魂が天上の栄光に入っていったのだと思った。しかし、それからずっと、こうした幻は一貫して私の人生を豊かにしてきた。幻は私の意思で呼べるものではなく、祈りや瞑想の最中に、多い時は月に8回から10回も、天の光景を見るために霊の目が開かれ、天上の空間の光の中をイエス・キリストとともに1時間か2時間歩き、天使や霊と話をするのである。私の質問に対する彼らの答えは、これまで出版した私の著作の多くの材料となった。その霊的交わりによる表現できない❸喜悦(エクスタシー)は、救われた者の喜びと交わりに永遠に入るその時(死)を私に恋い焦がれさせる。

これらの幻を単なる降霊術の一種だと考える人もいるだろう。しかし、ただ一つだけ本質的な違いがあることを私は強調したい。降霊術と言うのは、大胆にも霊から出るメッセージや暗示を暗黒界から呼び出すものであるが、実際まやかしとは言わないまでも、一般に断片的でわかりにくいため、弟子たちを真理に近づけるより、遠ざけてしまう。一方こうした幻においては、霊界の栄光のあらゆる部分が鮮やかにはっきりと見え、目に見えるようになった霊界の信じられないほど明るく美しい環境の中で、聖徒たちと真の友情を交わすと言う高揚をした体験をする。目に見えないものから得た曖昧で、部分的で、とらえにくいメッセージではなく、これまで私を悩ませてきた疑問の多くを解明するはっきりした合理的な答えを、これらの天使や聖徒たちから受け取った。

この❹「聖徒の交わり」は、初代キリスト教会が実際に経験した事実だったことから、「使徒信条」の中でも信仰に必要な条項の一つに数えられている。

ある時、私は幻の中で、この聖徒との交わりを示す証拠を、聖書の中から引いてほしいと頼んだことがある。するとそれはゼカリヤ書3章7.8節に明確に記されていると告げられた。「立っているもの」は、天使でもなければ肉や血でできた「人」でもなく、栄光に包まれた聖徒だったと言う箇所である。そして、ヨシュアが❺神の務めを守るなら、彼は「❻ここで仕える者ら(つまり聖徒)のあいだに歩むこと」を許され、それが彼の「同僚」〜つまり、彼と交わることができる、完成された人々の霊〜であると、神は約束する。

本書では、霊や聖徒や天使と言う表現が繰り返し出てくる。私はそれらを次のように区別している。「霊」とは良いものも悪いものもあり、死んだ後で天と地獄の中間の状態にある存在。「聖徒」とは、その状態をくぐり抜けて、霊界におけるもっと高い層に到達した人々で、特別な務めを割り当てられている。「天使」は、ありとあらゆる高級な務めが割り当てられた光り輝く存在である。彼らの中には、ほかの世界や私たちの世から来た聖徒も数多く含まれていて、全員が一つの家族のように一緒に暮らしている。彼らは愛によって互いに尽くしあい、神の栄光の輝きの中で、いつまでも幸福である。「霊の世界」とは、霊が肉体を離れた後に入る中間的な状態のことであり、「霊界」とは底なし穴の暗黒と、光に包まれた神の玉座の中間にある各段階を経て成長する、すべての霊的存在を意味する。〜以上サンダー・シング「 霊界の黙示」より

❶祈りや瞑想の中で霊眼が開かれると、敬愛する師も話していたように、❷何もかもあまりにも鮮やかな天界の景色を見ることができるのです。サンダー・シングも同じことを語っています。しかし、私は、まだ鮮やかに見ることができません。霊眼が涙に曇っているような感じです。まだ心が天界のご臨在に耐えられないのでしょう。しかし、❷鮮やかな視力をずっと求めているのです。サンダーから、学んでいきたいのです。祈りの中で主に会い、❸喜悦の中で❹聖徒や天使との交流をしたいのです。ここでは、ヨシュアが❺神の務めを守るなら、彼は「❻ここで仕える者ら(つまり聖徒)のあいだに歩むこと」を許される〜とあり、❺神の務めを守ることが鍵になるのでしょう。

ゼカリヤ書3章
3:7「万軍の主はこう言われる。もしあなたがわたしの道を歩み/❺わたしの務めを守るなら/あなたはわたしの家を治め/わたしの庭を守る者となる。わたしはあなたが❻ここで仕える者らの/間に歩むことを許す。

3:8大祭司ヨシュアよ/あなたの前に座す同僚たちと共に聞け。あなたたちはしるしとなるべき人々である。わたしは、今や若枝であるわが僕を来させる。(新共同訳)

 

宣教に命をかけてきたサンダーやマハリシに比べたら、私の生き方は、いさぎよくない恥ずかしいものなのです。

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