神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

❤️栄化への実践5 〜世の宗教に救いなし

【諸宗教の勘違い】

多くの宗教は、家内安全、無病息災などこの世のご利益を求めることを目的として、正月にはたくさんの人を集めます。また、お金持ちになりたい、病気を治したい、安産祈願、○○大学合格と願って、あそこの寺院や向こうの社寺仏閣へと足を運びます。

近年では、パワースポットが人気で、あそこの神社のご神木はパワーがあると聞けば、大勢が押しかけたり、こっちの滝はパワーがすごいとネットに出れば、バスツアーまで企画されますから驚かされます。

もう少し見識のある方だと煩悩を消したい、平安が欲しい、人生の意味を悟りたい、自分の魂に空いた穴を埋めたい、自分の魂を救いたい...と種々の宗教を渡り歩き、もがき続けます。そのために長時間修行し、瞑想し、何とか悟りを開きたいと奮闘するのです。

いくら修行しても、心の平安がなく、それを見出せないことがわかると、仏教のように「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」を知り、苦しみが生まれる原因を、「諸行無常(すべてはうつり変わるもの )」で、「諸法無我(すべては繋がりの中で変化している)」と理解しろ(敢えて言うなら、あきらめろ)と教えます。すべては変化するのだから不変のものは無い。自分も変化して無くなるから「無我」だと諭す宗教哲学(思想)が生まれたわけです。しかし、無我であっても、なぜか四諦八正道(苦悩の克服方法と正しい修行の方法・人生態度)を自身に教えています。内容は、内的な心の部分が全てで、外的な環境は何も改善しません。また、そんな空しい無を悟る世界観ですから、諸行無常で無我というなら生きていても仕方ない、いっそ悟りを極めて死んでやると飲食も止めて座禅しながらミイラになる人までいます。もう、この世のことには目をつぶって、知らぬがほとけという世界観でしょうか。

また、イエスの真意を見出せないキリスト教徒も、マリヤ像から涙が出たと聞いたら、行って拝み、ルルドの泉の水を飲むと病が治り、足萎えが歩き出すと聞けば、毎年多くの巡礼者が訪れます。

イスラム教徒は、偶像を禁忌します。そのために仏像や寺院を破壊し、絵を描くことすら嫌悪します。しかし、自分たちの偶像のあるカーバ神殿(隕石を祀ってある)を巡礼します。また、シーア派スンニ派の宗派対立は、戦争や殺し合いの様相です。

どの宗教も大きな勘違いをしています。それは、おおよそ全ての宗教の根本にあることですが、「自分」のご利益、「自分」の健康、「自分」の幸福、「自分」の心の満足、「自分」の魂の救い、「自分」の悟り、「自分」の、「自分」の、がその判断の根本になっているということです。

そのために、日蓮宗のように少しの教義の違いで犬猿の仲になって、お互い兄弟ゲンカを繰り返し、イスラムやオームのように人殺しまで肯定する宗教がたくさんあるのです。

教祖や指導者自らが人殺しを平気でしていたのですから、呆れたものです。「諸宗教自体が同じ真理を目指しており、理解し合える」などと世迷言を言う者もいますが、もともと教義が違えば、相容れません。彼らの宗教は、「自分」の教義、「自分」の作法、「自分」の指導者が一番だからです。自ら十字架に架かる者などいない、この世の宗教だからです。

多くの日本人が葬式の時だけお世話になる仏教でも、無我と言いながら、自分の生命のために水を飲み、自分のために飯を食い、自分のために睡眠し、自分の悟りのためにお経を連呼しています。

はっきり言いましょう。解脱だとか心の安心は、まだ第一段階です。自分の悟りや解脱を得ようともがいているこれらの宗教では、煩悩を消し、平安を得て、人生の意味を悟り、自分の魂に空いた穴を埋めることは、できません。心や考えだけの世界では、慰め程度にはなるかもしれませんが、根本的な解決にはなりません。この世には、苦悩がつきまとうから、自分の置かれた環境に満足して、あきらめろ〜では、根本的な解決にはなりません。

外的環境を変えるデュナミスの力が無いなら、この世は闇のまま変えられないのです。実践的な力の伴わない瞑想や座禅だけの宗教なら、さっさとあの世に行ったらいい。ましてやそんな現世を変革できないSFの世界の教えでは、自分の魂を救うこともできないでしょう。

そんな方たちのために、イエスはこう言うのです。

マタイ伝16:25

自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのために自分の魂の命を失う者はそれを見いだす。(回復訳)

この聖言がわかるとき、やっとこの世の価値観を超えた神の国の高いルール(基準)を理解し始めるのです。

イエス・キリストの不思議な教え】

確かにイエス・キリストは、祈りの人でした。しかし、修行していたエッセネ派のクムラン近くの荒野で祈りと瞑想だけをしていたわけではありません。

マタイ伝4:23

イエスガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、❶御国の❷福音を宣べ伝え、また、民衆の❸ありとあらゆる病気や患いをいやされた。(新共同訳)

‭‭マルコ伝1:15‬ ‭

「時は満ち、❶神の国は近づいた。悔い改めて❷福音を信じなさい」と言われた。(新共同訳‬‬)

マタイ伝‭11:4-6‬ ‭
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。❸ 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」(新共同訳‬‬)

イエスの教えは、❶神の国がこの世界に来た❷福音(驚くべきグッドニュース=恵福)を広めることでした。具体的には、❸ 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病(籟病)を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされる現実の力ある❷福音、驚くべきグッドニュース=恵福だったのです!当時、特筆すべき大奇跡を引っ提げて、ガリラヤ近郊からエルサレムまで、3年に亘り活動をしたイエス。四人が伝記である福音書を書き、キリスト教徒ではない1世紀の歴史家フラビウス・ヨセフスは、『ユダヤ古代誌』に以下のように記しています。

「さてこのころイエスという賢人が現れた。また、喜んで真理を受け入れる人たちの教師でもあった。そして、多くのユダヤ人を帰依させた。ピラトは彼が我々の指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは彼を見捨てようとはしなかった。なお彼の名にちなんでクリスティアノイと呼ばれる族は、その後現在にいたるまで連綿として残っている」。これは歴史家ヨセフスの「キリスト証言」と呼ばれるもので、イエスの実在を十分に示しています。この他、この本にはイエスの時代のユダヤ社会を牛耳っていた二大派閥ファリサイ人とサドカイ人の説明だけでなく、ヘロデ王、洗礼者ヨハネ、大司祭カヤファ、総督ピラトなど福音書でおなじみの人物も登場し、福音書が歴史的な書物であることを裏付けています。

 

キリストの教えは、瞑想して心の持ちようを変えて、、、そんな意見をコメントする人がいましたが、、キリストの福音をそんな与太話で終わらせてたまるものですか!

❸ 盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。(JA1955‬)

「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。」マタイ‭11:4‬ ‭(JA1955‬‬)
と言い放つ力ある事実が伴う福音。言葉の教えなんかに収まっていない、現実世界を変革する力ある❷福音だったのです。

もしイエスが、十字架で死んだあと、肉体の復活がなければ、その後のキリスト教は存在しなかったでしょう。イエスの復活の事実やその後復活のイエスが500人に現れたこと、弟子たちの大奇跡力の伴う福音が使徒行伝時代に展開し、キリストの教えをローマの国教にまで押し上げ、認めさせたのです。今では、信者数は、22億人を超え、世界でもっとも多くの人がイエス・キリストを信仰しているのです。

1:『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。2:『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。

つまり、

1:ひとつの目で、天の御座の主イエスを見つめ、聖なる御父と麗しい主イエスを愛する。2:隣人を愛し、隣人のために癒し、施し、労を惜しまないことが、大切な特徴です。

イエス・キリストの福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、すべて信じる者を救いに至らせる神の力です。(ローマ1:16)
しかし、この2つの愛がイエス・キリストの語った実践すべき教えの特徴であり、柱と梁なのです。

 

この世の宗教では、「自分」だけ悟ればよい、「自分」だけ救われたならそれで良い、「自分」の宗教は一番だと他を押し退ける。そんな魂は救われません。

イエスの福音は、心に愛があふれ、内面だけに留まらず、愛の力で外側の現実世界を変革する。人々に神の国の福音を広げていく。キリストの教えは、苦しみ困窮する人々を救う、言葉でなく力にある愛の❷福音なのです。


Ⅰ‭‭コリント4:20‬ ‭

神の国は言葉ではなく、力である。」(‭JA1955‬‬)

主は言い給うた、「汝ら我に居り、わがささやく言葉が汝らの中に聞こゆるならば、望むがままに求めよ。さらば汝らに実現する」(ヨハネ伝15章7~8節)と。私たちは豊かに実を結び、主の弟子となり、父なる神の栄光を現わさねばならぬ。カリスマ的な能力と特性と賜物が、今ぞ私に発芽しつつあり。これを尊んで、カリスマ的大人格の完成を目指さねばならぬ。

            〜手島郁郎師『霊修の五段階』より

栄化のためにカリスマ的な能力と特性と賜物が、聖霊により開花することを望みます。

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2019.4.29撮影

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2016/04/02/232955

キリストの幕屋(原始福音)が、イコール統一教会であると言うデマがありますが、実際に集会へ行って調べて言っているのでしょうかね?全く無関係なのに、よく調べもせずネットに流す愚か者が日本人に居るのが残念です。