神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

❤️栄化への実践7 〜霊言の霊修

イエスの贖いのゆえに、信仰と恵により義と認められたわれわれは、聖化、栄化へと進んで行くべきです。

 

敬愛する師は、60年も前に、「主の霊的栄光を顕現することこそ、全生活の目標」と語っていました。師より学ぶところ、大であります。紹介させてください。

〜敬愛する師のお話より〜

キリストを信じる者は、永遠の生命を受け、キリストの霊を盛る器となる主の霊的栄光を顕現するようになることをこそ、信者は全生活の目標としなければなりません。

聖霊を受ける」と言うことは、一時的な興奮や主観的な観想ではない。実にキリストの霊が、信ずる者たちの心に盛られ、その花を多彩に咲かせ、豊かな実を結ばしめるに至る経験であります。主イエスは言われた。「わが来たりしは、羊に生命を、豊かなる生命を与えるためなり」と。

「霊修会」〜  一夜を徹して熱禱の後に、 参会の一同が、現実に、ありありと、聖霊の恵みに浴する歓喜は、たとえようもないものであります。異言や神癒の賜物は、カリスマ的な賜物としては最も初歩的なものです。この初歩的な賜物を体得して後に、預言、奇蹟、霊をわきまえる力、霊的な真理(神学書を読んだ知識や宗教哲学に非ず)などの賜物も生き生きと与えられます。もちろん、人によって個人差があり、一概に論ぜられません。「御霊は思いのままに、それを各自に分与される」からです。(1コリント12:11)

預言者の霊の啓発○

「初歩的な賜物は無用だ、私は高級な賜物が欲しい」と言う人もあるが、小学校の一年課程から習得せずに、一躍して大学に入学しても、霊学の基礎を知らぬものが、迷い、失意の中に霊の大学から落第することは、当然でしょう。初歩的な賜物とても軽視できません。

私たちは、自分自身が、原始福音時代の聖徒たちの如く、または旧約時代の預言者たちの如き高き霊的経験に進みゆかねばなりません。これは、一方的な恩寵による、聖霊のおん注ぎに浴して、驚くべき天が地に開ける経験ですから、感激であり、喜びでしょう。

私たち、原始福音に生きる一群に天耳通や天眼通が開かれ、霊界の黙示や、異言や、預言などの霊的現象を啓発されるについては、強い待ち望みの信仰を持ち続けて、霊界の高嶺を目指さねばなりません。

○最上の霊的向上法○

おおけなくも、神の御霊が人間に臨むと、人は変わって、“新しき人”となり、“新しき言葉(グローサ)”を語るに至る(マルコ16: 17)とあるが、この“異言"は、「神に語り、思想伝達するに最も適当な言葉である。自分にも他人にも不可解でも、霊に於いて神秘を語りつつ、自己の霊性を建設するに於いては、実に奇すしき霊修法となる」と、パウロはコリント前書14章の初頭に申しています。

初代教会に於いては、異言を語ることは、完成せるクリスチャンたるための一つの徴候とさえ、見られていました。

私たち、霊的世界の夜明けを先駆せんとする者は、このような神秘経験を、一人一人、自分の経験として確実に進んでゆかねばなりません。

〜手島郁郎師  「預言霊修法」より〜つづく

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【異言の重要性】

異言による祈りには、大きな効果があります。

1.聖霊バプテスマのしるし/神を大きく表現できる

10:45そして割礼を受けている信者で、ペテロと同行していた者はみな、聖霊が賜物として異邦人の上にも注がれたのを見て驚いた.
彼らは異邦人が異言で語り、神を大きく表現するのを聞いたからである。そこでペテロは答えた、「だれが水を止めて、わたしたちと同じように聖霊を受けたこの人たちが、バプテスマされないようにすることができるでしょうか?」使徒行伝10:45-47

2.神に語り奥義を語る/悪しき霊はそれを盗み聞くことができない

異言で語る者は、人にではなく神に語ります.なぜなら、だれも聞き取れる者はなく、彼はただ自分の霊の中で奥義を語るからです。1コリント14:2

3.自分自身を建造する

異言で語る者は自分自身を建造しますが、預言する者は召会を建造します。1コリント14:10

4.言い難いうめきを聖霊がとりなす

さらに、同じように、その霊もわたしたちの弱さを担って、助けてくださいます.なぜなら、わたしたちはどのように祈ったらよいのかわからないのですが、その霊自ら言い難いうめきをもって、わたしたちのためにとりなしてくださるからです。ローマ8:26

異言は、聖霊による天国へのホットラインです。異言から、天を開くことが容易になります。それから、種々の賜物を求めて、とりなしていただくことができるのですね。

 

キリストの幕屋(原始福音)が、イコール統一教会であると言うデマがありますが、実際に集会へ行って調べて言っているのでしょうかね?全く無関係なのに、よく調べもせずネットに流す愚か者が居るのは残念です。

手島郁郎師の経験してきた霊的世界の高嶺を、われわれも学ぶことが、世の終わりの時代に大切なことだと思います。

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2019.5.11撮影