神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

❤️栄化への実践12 〜霊の乞食となれ

今まで、栄化への実践について、柱と梁について話してきました。

柱とは:天の御座の主イエスを見つめ続けるひとつの目を開くことで、聖なる御父と麗しい主イエスを愛することができます。赤子のように天で生き、同時に主のご臨在の中に生きることが常態化することで、パウロが言う国籍を天国に置くことが可能です。

また、梁とは:隣人のために肉体を十字架につける(隣人のために肉体を酷使する)ことで、聖書にあるような神の奇跡力が現れ出ます。自己の肉体や魂(精神力)が弱いときに霊である神さまが現れると言っても良いでしょう。

この柱と梁の二つの愛のクロスで、神様が顕現することについてお話ししました。

また、サンダー・シングが話した殉教者のように、恐ろしい迫害の苦痛の中で、天国の喜びを味わう不思議が起こるのです。死に瀕した肉体に反してキリストが復活して、霊魂が天国に入ってしまった栄化の状態をそこに見ることができます。この世にいながら、強い神の臨在の中で、天国を感じているのです。

栄化に近づくと、肉体にも変化が出ます。この世の暑さ寒さや死ぬほどの苦痛も、さほど感じなくなるようです。世人には耐え難い苦痛の中でも、天国の喜びを感じているカータル・シングを見た村人は、苦痛を与えてもキリスト者には逆効果だと知ったと書いてありました。

次に「完全になれ」と言う主の命令についても説明してきました。隣人への愛を増し、迫害する者のために祈ることが、内なる聖霊と主のご臨在の中で可能になります。

「われわれの信仰とは1」の記事で、ローマ3:22の神の義をもたらした信仰の主体は誰なのか?主イエスからの(主イエスの中の)信仰により開かれたものであることを説明しました。

また、信仰とは主イエスに近づくことであり、神の義を受けるために、われわれに必要な行動は、主イエス接触することです。

しかし、自分自身も含めて懸念されることがあります。「聖化」及び「栄化」についても、一般には、人間の努力やわざでなく、ともに聖霊と神の御業による賜物だと言っています。そこで何もしなくなり立ち止まってしまうことが懸念されます。これが今のプロテスタントキリスト教会の傾向です。

パウロは、Ⅰコリント9:25〜27でこのように言っています。

「競争する者はみな、すべての事で節制します.彼らは朽ちる冠を受けるためにそうしますが、わたしたちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。こういうわけで、わたしはこのように走ります.はっきりした目標のない走り方ではありません.このように拳闘します.空を打つような拳闘ではありません.
わたしは❶自分の肉体を打ちたたき、それを自分の奴隷としています.それは、人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格することがないためです。」(回復訳)

 

ピリピ3:10〜21では、以下のように言っています。

「キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて、何とかして、❷死人の中からの格別な復活に到達するためです。わたしは、すでに獲得したとか、すでに完成されているとか言うのではありません.わたしは、それを捕らえようと追い求めているのですが、それはわたしが、キリスト・イエスによって捕らえられているからです。兄弟たちよ、わたしはまだ自分自身、捕らえたとは思っていません.ただ一つの事、すなわち、後ろにあるものを忘れて、前にあるものに向かって体を伸ばしつつ、キリスト・イエスの中でわたしを上に召してくださった❸神の賞を得るために、目標に向かって追い求めています。
こういうわけで、成人した者はみな、この思いを持とうではありませんか.また、もしあなたがたが別のことを思っているなら、神はこれをも、あなたがたに啓示してくださるでしょう。
しかしながら、わたしたちが到達したところにしたがって、同じ規範によって歩こうではありませんか。

兄弟たちよ、共にわたしに倣う者になりなさい.また、あなたがたがわたしたちを模範としているのと同じような歩みをする人たちに、注意深く目をとめなさい。というのは、わたしがしばしばあなたがたに告げ、今また❹泣いてまであなたがたに告げるように、多くの者は歩いてはいますが、キリストの十字架の敵であるからです.彼らの終わりは滅びであり、彼らの❺神は腹であり、彼らの栄光は彼らの恥であり、彼らは思いを地上の事柄に置いています。
しかし、❻わたしたちの国籍は天にあります.そこから救い主、主イエス・キリストが来られるのを、わたしたちは熱心に待ち望んでいるのです.キリストは、万物を彼ご自身に服従させることができる彼の活動によって、わたしたちの❼卑しい体をも変貌させ、それを❽彼の栄光の体に同形化してくださいます。」(回復訳)

 

パウロでさえ、❶自分の肉体を打ちたたき、それを自分の奴隷としています.それは、何とかして、❷死人の中からの格別な復活に到達するためです。その❸神の賞を得るために、目標に向かって追い求めていると言っています。
パウロは❹泣いてまで、多くの者はキリストの十字架の敵であり、彼らの終わりは滅びであると訴え、彼らの❺神は腹であり、彼らの栄光は彼らの恥であり、彼らは思いを地上の事柄に置いていると言っています。
しかし❻わたしたちの国籍は天にあり、キリストは、わたしたちの❼卑しい体を変貌させ、それを❽彼の栄光の体に同形化してくださると言っているのです。

 

敬愛する師は、天国が近づき、神に近づくことについて、次のように言っています。

〜敬愛する師の話〜

イエスの伝道の第一声は、「天国は(または神の国は)近づきたり」でした。「イエスあまねくガリラヤを巡り、会堂にて教えをなし、御国の福音を宣べ伝え、民のもろもろの病、もろもろの疾患(わずらい)をいやし給う」(マタイ4: 23)たので、大群衆が慕いやって来た。ガリラヤ伝道の大きい特色は、神の力で暴風を制し、死人を蘇生させ、霊力によって数多くの病気を治療し、信仰が奇跡力を伴うことを証示されました。また、イエスは山上にて人々を教えて言い給うた、「幸福なるかな、心の貧しき者よ、天国はその人のものなり」(マタイ5: 3)と。「心の」でなく「霊に(プニューマ)」です。直訳すれば「恵福なるかな、霊を乞食する者たちよ、天国はその人たちのものなり」と。「その人たちのものなり」とあるように、天国を現に所有している人は幸福だ、と言われた。マルコ伝やルカ伝には「天国」という語に代わって、「神の国」と言う言葉を用いてある。「神の国は近づけり」、「神の国の福音を宣べ伝えざるを得ず、わが遣わされしはこれがためなり」(ルカ伝4:43)などがあります。「神の国の福音」、これがガリラヤ伝道の主題でした。幼き者たちを見て「天国はかくのごとき者の国なり」(マタイ伝19: 14)と言われたり、「我もし、神の指によって悪鬼を逐い出さば、神の国はすでに汝らに至れるなり」(ルカ伝11: 20)とおっしゃったように、「天国」とか「神の国」と言う言葉で、イエスはご自分の喜ばしき宗教的内容を宣べ給いました。

ところで、今のクリスチャンの信仰の主題も、同じく「天国」です。だが、文字は同じでも、内容は大いに違います。天城山にでも心中して、死んで「天国に結ぶ恋」(天城山心中)を完成しようなんて、こんな恋愛物語の映画化があったりすると、人々は天国に憧れる。だが、そんな愛欲地獄に狂う者どもが、天国の喜びに入ったりすると思ったら、大間違いです。病院などに行きますと、大概のクリスチャンは、青息吐息です。病気だから仕方がないが、そこで牧師さんが来て「病気は神の与え給うたもの、しかし天国が近づいているから、死ぬまで忍耐なさい」と言って、あきらめさせて慰めようとします。しかし、主イエスは、そんな気休め的な事は一言もおっしゃっていません。福音書をお読みください。「恐れるな。信仰心を起こせよ。主の信仰は全能だ! 愛だ!神の生命を受けて、立ち上がれよ。病から癒えよ!」とおっしゃいました。イエスが「幸いなるかな、貧しき者よ、天国はその人のものなり」と言われる時、それは彼岸的でなく、現に自分の中に天国を所有していることを言っておられます。死んだ先に天国があるのではない、此岸的(しがんてき)に、今、人の心内に始まる。今、天を地上に生きながら持っている人は幸いだ、とイエスは言われたのでした。

「善き樹は善き果を結ぶ」、この人世において、天国の生命を胚胎しない者が、どうして彼岸の天国で花咲くことがありましょう。天の彼岸に根を下ろすだけの種子を有せずして、どうして天国の花を咲かせ得ましょう。この世は短くとも、天国の予備校です。神の霊をこの世で受胎せずして、あの世で天国に行けると思うのは、人間の妄想です。「 人、新たに生まれずば、神の国に入ること能わず」。病院の隣が天国だなんて、そんな弱々しい病める天国を、イエスは知られませんでした。たとえ病人であろうとも、どんなに逆境に苦しんでいても、どんなに虐げられていても、いつもにっこり笑って生きている人たちの姿しか、聖書は書いていません。「恵福なるかな、霊(プニューマ)の貧しき者よ!」〜貧しい者(プトコイ)とは、「乞食」の意味ですが、乞食は毎日何か恵まれなければ、与えられなければ、生きて行けません。毎日人から、何か施されねば、生きてゆけません。同様に霊の貧しき者は、神の生命を与えられ、霊の賜物を恵まれなければ、生きることすらできない。「霊の乞食」として、いつも神の霊を、喘ぐように呼吸し、マナを食べている者こそ、天国をすでに地上で持っている人です。昔、出エジプトしたときのモーセの一団のように。

また、「我もし神の霊によりて、悪鬼を逐い出さば、神の国は既に汝らに到れるなり」(マタイ伝12: 28)ともあります。ガリラヤでなさったイエスの伝道は、霊的に非常に強力なものでした。見えない神の国を、何か見ゆるようにも感ぜしめ、目にもの見せてくださるほど、狂人は癒され、盲人は目開け、足なえは立ち上がり、唖者はもの言い、心苦しむ者はたちまちに心内に喜びをわかせられました。

神の国」とは、神の王国とか神の支配という意味です。神の霊がこの世に干渉し、直き直きに支配力を及ぼし統治することをいうのですが、タルムードでは、人間と共に神が臨在する場合を「シェキナー」と言います。「二、三人が我が名によって集まるところには、我もまた在す」(マタイ伝18: 20)とイエスは言われました。神の霊を持つ人は、今にも奇跡を引き起こすような、❾驚くべき霊的雰囲気の中で生きています。イエスの「神の国」の内容は、➓著しい「神の示顕」、すなわち神霊のシェキナー状況でした。〜以上、「信仰序説」原始福音信仰の発展段階 より〜

 

神の霊を持つ人は、今にも奇跡を引き起こすような、❾驚くべき霊的雰囲気の中で生きています。イエスの「神の国」の内容は、➓著しい「神の示顕」、すなわち神霊のシェキナー状況でしたと言っている敬愛する師も、同様の奇跡力を行使し、狂人は癒され、盲人は目開け、足なえは立ち上がり、唖者はもの言い、心苦しむ者はたちまちに心内に喜びをわかせられました。これは、ひとえに、キリストの臨在、❾驚くべき霊的雰囲気の中で、➓著しい「神の示顕」、すなわち神霊のシェキナー状況が現れていた証示です。

われわれの目指すところは、なぐさめの言葉だけの福音ではなく、霊、魂、身体にまで影響し、狂人は癒され、盲人は目開け、足なえは立ち上がり、唖者はもの言い、心苦しむ者はたちまちに心内に喜びをわかせられる圧倒的な主イエスの福音でなければなりません。今にも奇跡を引き起こすような❾驚くべき霊的雰囲気の中で、「神の国は今、ここに来ているんだ!」と➓著しい「神の示顕」、すなわち神霊のシェキナー状況を現すほどに、御国に近づき、御国にズッポリ浸かってしまう信仰であるべきです。「二、三人が我が名によって集まるところには、我もまた在す」(マタイ伝18: 20)と約束し給うた主イエスさま。

霊の乞食となり、主イエスを霊的エクレシアの中で、祈りの中で、飢え渇いて、はっきりと迎えていきましょう!

命がけで神に祈ったサンダー・シングは、キリストの実体に出会い、顔と顔を会わせて語りかけられ回心しました。

敬愛する師も米軍政官から逃れ阿蘇地獄高原に潜伏中に光輝くキリストが現れたと語っていました。その際 師はキリストより啓示を受け、一切の事業を捨て、1948(昭和 23)年38 歳にして独立伝道者となりました。

復活したもうたキリストは、弟子たちに現れ、パウロに現れたように、21世紀の今も求める人にその栄光体で現れ、大啓示をお与えになります。

顔と顔を会わせるほどの著しい「神の示顕」を受けたいのです。

 

PS  敬愛する師の話〜祈りについて

祈りは神の愛の息吹に触れ、主の膝下に対座して聖顔を仰ぐ喜びである。霊魂の息づく呼吸である。神の中に引き上げられ、聖前にかしずく歓喜であり、憩いである。心ゆくまで神と物語ることを許され、神の聖意を知る喜びである。祈りの中にあるとき、沈黙の神は御心を黙示し給い、その経綸と計画を漏らしたもう。私たちに必要な能力を藉(か)し、私たちの知らない高次元の世界に引き上げ、私たちの魂を喜ばしめ給う。その時、私たちは進んでその御心のならんことを祈願し、神の栄光のために自分の用いられんことを希求するものである。「貴神に対する永遠の奉仕のために、今日も、私は私自身を聖前に捧ぐ」(トマス・ア・ケンピス)と祈らざるを得ない心である。祈りは神への請願であるよりも、神との交わりである。対面である。 

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アッシジの聖フランシスは「主よ、私は貴神の外には何ものをも有たず、何をも愛せず、何をも欲しませぬ」と祈った。神に見出され、聖前にある歓喜をもつこと、神を離れては何らの願いも希望もなく、喜びも見出さない心境、これが祈りの最高段階である。〜以上〜

神に近づくために祈りの中で、霊の乞食となり、この世のものでない、天の栄光、YHWHのシェキナーに日毎養われて生きる日々でありたいのです。神の霊に触れ、キリストと同形化されれば、この世のどんな宝も喜びにも勝るものを主と共有するのです。

キリストは、万物を彼ご自身に服従させることができる彼の活動によって、わたしたちの❼卑しい体をも変貌させ、それを❽彼の栄光の体に同形化してくださるのです。

 

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2017/01/03/000444

 

栄化された大聖

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2016/07/18/213823