神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

❤️栄化への実践13 〜魂を失うとは

栄化への実践12では、敬愛する師の話から、主の強い示顕を求め、顔と顔を合わせるほどのシェキナー状況を祈求することについて学びました。「二、三人が我が名によって集まるところには、我もまた在す」(マタイ伝18: 20)と主イエスは言われました。神の霊を持つ人は、今にも奇跡を引き起こすような、驚くべき霊的雰囲気の中で生きています。主イエスの「神の国」の内容は、著しい「神の示顕」、すなわち神霊のシェキナー状況でした。顔と顔を合わせるほどの神霊(エロヒム)のシェキナー状況を祈求することについて、さらに学び体験していきましょう。

「わたしを愛する者は、わたしの父に愛される.わたしも彼を愛して、⓫わたし自身を彼に現す」と言うヨハネ14章21節の主イエスの聖言が、鍵になります。

ヨハネ伝14章

9イエスは彼に言われた、「ピリポよ、わたしがこんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのか? ❶わたしを見た者は父を見たのである.どうしてあなたは、『わたしたちに父を見せてください』と言うのか?
10わたしが父の中におり、父がわたしの中におられることを、あなたは信じないのか? ❷わたしがあなたがたに語る言葉は、わたしが自分から語るのではない.❸わたしの中に住んでいる父が、ご自身のわざを行なっておられるのである。

11わたしを信じなさい.わたしは父の中におり、父はわたしの中におられる.しかし、もし信じないなら、❹わざそのものによって信じなさい。

〜この主イエスの聖言は、頭で理解することでなく、体験することであることは、ピリポに「わたしがこんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのか?」と語り、呆れられたことからわかります。「❶わたしを見た者は父を見たのである」とは、視覚で体験し、わたしは父の中におり、父はわたしの中におられることが、もし信じられないなら、イエスの❹わざそのものを見ているのだから、そのわざ(行い)によって信じなさいと語られました。
12まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.わたしの中へと信じる者は、わたしが行なうわざを行なう.そればかりか、❺もっと大きなわざを行なうのである.なぜなら、わたしが父に行くからである。

イエスの中へと信じる者は、イエスが行なうわざを行なう.「そればかりか、❺もっと大きなわざを行なう」とは、実際に可能なのでしょうか?それは、使徒行伝の使徒たちの記事からわかります。

「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。」マタイ11:4-5(口語訳)が使徒行伝の使徒たちによっても行われていた記事があります。また、使徒行伝の記事以外にも、紀元52年に聖トマスがインドを訪問した際の伝承や、トマス行伝などインド宣教で驚くような奇跡がおこり、グンダファル王はじめ多くの人々が救われたことが書かれています。実際にトマス派はこの流れをくむ教派であります。

13あなたがたがわたしの名の中で求めるものは何でも、わたしはそれを行なう.❻父が子の中で、栄光を受けられるためである。
14あなたがたがわたしの名の中でわたしに何を求めても、わたしはそれを行なう。

あなたがたは、わたしを愛するなら、❼わたしの戒めを守るであろう。

16わたしは父にお願いしよう.そうすれば、彼はあなたがたに別の❽慰め主を与えて、いつまでも、あなたがたと共にいるようにしてくださる.
17それは❽実際の霊である.世は❽その方を受けることができない.それは、世が❽彼を見ないし、知りもしないからである.しかし、あなたがたは❽彼を知っている.❽彼はあなたがたと共に住んでおり、❾あなたがたの中におられるようになるからである。

〜❽慰め主は、❽実際の霊であり、キリストの霊を指すのでしょう。世は❽彼を見ないし、知りもしない、しかし、あなたがたは❽彼を知っている.❽彼はあなたがた(私たち)と共に住んでおり、❾あなたがたの中にいるようになると言っています。

ヨハネ14章17節 回復訳フットノート❽より〜
ここで約束されたその霊は、第7章39節(7:39)で述べられました。この霊は命の霊であり(ローマ8:2)、主のこの約束は、主の復活の日に成就されました。その時、命の息としてのその霊は、弟子たちの中に吹き込まれました(20:22)。ここの主の約束は、ルカによる福音書第24章49節(ルカ24:49)の力の霊に関する御父の約束とは異なります。その約束は、主の復活の五十日後、ペンテコステの日に成就されました。その時は、力ある風としてその霊が、弟子たちの上に吹きつけました(使徒2:1―4)。この節の命の霊は、「実際の霊」と呼ばれています。この実際の霊はキリストです(6節)。ですから、実際の霊はキリストの霊です(ローマ8:9)。この霊はキリストの実際であって(Iヨハネ5:6、20)、キリストが命また命の供給として、彼の中へと信じる者たちの中で、実際化されることができるためです。(回復訳注より)
18わたしは、あなたがたをみなしごのままにはしておかない.わたしはあなたがたに来る。
19もうしばらくすると、世はもはやわたしを見ない.しかし、あなたがたはわたしを見る.わたしが生きているので、あなたがたも生きるようになる。

〜もうしばらくすると、世はもはやわたし(イエス)を見なくなる。しかし、あなたがたは復活したわたし(イエス)を見る。実際、当時500人以上の人が復活したイエスに会っています。イエスは復活して生きている証拠を示しました。旧約の下では、永遠の生命はなかった私たちにも、復活を示して、生きるようになると言われました。
20その日には、➓わたしがわたしの父の中におり、あなたがたがわたしの中におり、わたしがあなたがたの中にいることを、あなたがたは知るであろう。

〜その日とは、復活の日、➓わたし(イエス)が父の中におり、あなたがたがわたし(イエス)の中におり、わたし(イエス)があなたがたの中にいることを、あなたがたは知るであろうと言っています。

21わたしの戒め(複数形)を持ち、それを守る者は、わたしを愛する者である.わたしを愛する者は、わたしの父に愛される.わたしも彼を愛して、⓫わたし自身を彼に現す」。(回復訳)

〜わたしの戒め(複数形)とは、律法と預言者がかかっている二つの戒めです。

マタイ伝22:37-40

イエスは彼に言われた、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが大切な第一の戒めである。
第二もそれと同じである.『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。これら二つの戒めに、すべての律法と預言者がかかっている」。(回復訳)

それを守る者は、わたしを愛する者であり、わたしを愛する者は、わたしの父に愛される.わたしも彼を愛して、⓫わたし(イエス)自身を彼に現すと言っています。

マタイ伝10章から、以前に記事にした二つの戒めが架かっている十字架について、大切な10章39節を調べてみました。

38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしくない。
39自分の⓬魂の命を見いだす者は⓬それを失い、わたしのために自分の⓬魂の命を失う者は⓬それを見いだす。マタイ10:38.39(回復訳)

39 ὁ εὑρὼν τὴν⓬ψυχὴν αὐτοῦ ἀπολέσει αὐτήν, καὶ ὁ ἀπολέσας τὴν⓬ψυχὴν αὐτοῦ ἕνεκεν ἐμοῦ εὑρήσει αὐτήν.(ギリシア語)

回復訳で、⓬ψυχὴνを「⓬魂の命」と訳すのは、⓬ψυχὴνには、「魂」と「命」の二つの意味があるために、どちらで訳したらよいか迷った上での訳なのでしょう。

どちらが真実かというと、「魂」と「命」の両方の意味を含めて理解する必要があると思っています。

祈りの中で示されているのは、「魂」で、「魂」の意味は、日本語だと漠然としますが、他の言語では「精神、思い」という意味です。また、マタイ10:39の「⓬それを失う」とは、「命、生命を失う」を入れると意味が整います。

私訳してみます。

マタイ伝10章

38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしくない。
39自分の⓬心の思いを見いだす者は⓬生命を失い、わたしのために自分の⓬心の思いを失う者は、⓬生命を見いだす。(私訳)

つまり、自分の⓬心の思いで行動する者は、その⓬生命を失い、イエスのために自分の⓬心の思いでなく、聖霊の思い(声)に従い、行動する者は⓬生命を見いだすということです。

聖霊の思いを優先して、二つの戒めに従い、自分の思いを失う者は、⓬生命を見いだすのでしょう。これは、聖霊を受けた者が体験しながら修得するための大切な聖言です。

39自分の⓬心の思いを優先する者は⓬生命を失い、わたしのために自分の⓬心の思いを失う者は、⓬生命を見いだす(私訳)  と言っているのでしょう。

同様な聖言がマタイ16章にもあります。こちらは、両方の意味を入れて、私訳してみます。

24それから、イエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を否み、自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい。
25自分の⓬思いや命を救おうとする者は⓬それを失い、わたしのために自分の⓬思いや命を失う者は⓬それを見いだす。(私訳)

テレビでタイタニック沈没の際、他の乗客に救命ボートに乗ることを勧め、自身はタイタニックとともに沈んで行った米国の実業家ストラウス夫妻の話をしていました。

女性や子供、そしてファーストクラスの乗客を優先的に救命ボートに乗せていたため、2人ともボートに乗ることはできました。しかし夫のイジドは「女性や子供たちが全員無事に脱出するまでは乗ることができません」と言い、救命ボートに乗らなかったそうです。また、妻のアイダは夫とともに残ることを決意しました。私だったらどうでしょうか?他の乗客にその権利を譲ることが、私にはできるのでしょうか?

それを考えたとき、潔く「できる」と言えない自分がいます。古い肉のアダムがいるのです。

祈りの中で、このアダムを葬ることを示されました。その方法は、栄化への実践で話した長尾先生のように、人を救うために肉体を苦しめることに通じます。自分の思いを失うこと、それこそが⓫わたし(イエス)自身を彼に現すと言った聖言のとおり、神様が現れることなのでしょう。二つの愛の戒めを守る者は、わたし(イエス)を愛する者であり、わたし(イエス)を愛する者は、わたし(イエス)の父に愛される.わたし(イエス)も彼を愛して、⓫わたし(イエス)自身を彼に現すと言うヨハネ14:21の聖言が実際に体験として起きるのです。

「自分の⓬思いや命を救おうとする者は⓬それを失い、わたしのために自分の⓬思いや命を失う者は⓬それを見いだす。」マタイ16:25(私訳)

「わたし(イエス)を愛する者は、わたし(イエス)の父に愛される.わたし(イエス)も彼を愛して、⓫わたし(イエス)自身を彼に現す。」ヨハネ14:21


自分の⓬思いを優先すれば、⓬生命を失い、主イエスのために自分の⓬思いや命を失う者は⓬それを見いだすのですね。主イエスを愛する者は、イエスの父に愛され、主イエスも彼を愛して、⓫主イエス自身を彼に現すと言われます。

⓫主イエス自身が現れてくださるとは、何と幸なことでしょう。

 

 

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