神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

❤️栄化への実践18 〜吉井純男師の栄化

岩本遠億牧師の話から〜シェアさせてください。

私は、このメッセージを準備しながら、一人の若い伝道者のことを思い出していました。「天の御国のため、自ら進んで独身者となったものもいる」という言葉を読んで思い出したのです。その人は、高知出身の吉井純男先生と言います。私はお会いしたことはありません。もう50年以上前に亡くなった方ですが、27年間の生涯を精一杯生き、ついに結婚することなく、伝道者としての生涯を全うしました。
若い時から無教会に触れて、信仰を持ちましたが、熊本で始まった無教会の中の聖霊運動に感化を受け、高知から道を求めて熊本に出てきました。そこで指導者の先生から薫陶を受け、聖霊に満たされて、出身地である高知に伝道に出て行きました。しかし、戦後のことで十分な栄養を取ることもできず、身体の弱い吉井先生は肺病を患っていました。自分の身体を顧みずに、あまりにも一生懸命伝道している姿を伝え聞いた熊本の先生が吉井先生を休養のために熊本に呼び返しました。
しかし、熊本でもじっと休んだりせず、結核の治療薬で耳の聞こえなくなった学生のために学校に同行し、授業の筆記を取ってやったり、自分も肺病なのに、肺病の人を自分の借りている家で世話をしたり、ギリシャ語研究會を主催して聖書を学ぶ人たちのグループを作ったりしました。
吉井先生は、熊本でもそのように人々を支えていましたが、高知の人々からは「早く帰ってきて欲しい」との手紙が届きます。そのことを思うと居ても立ってもおられず、冬の寒い最中に、水前寺公園のプールに入って水垢離をとり、冷たい水の中で、高知の愛する人たちのために祈ったというのです。それを伝え聞いた先生がすぐに中止を勧告しましたが、吉井先生は聞かず、次の日も水前寺公園のプールに入り、そこで倒れてしまった。心配して見に来た信者の方に助けられて一命は取り留めましたが、熊本の人々、高知の人々への愛は止まることを知りません。
ついに高知に帰る許可が下りて、彼は帰りますが、渇き、弱ってしまっている人たちのところを連日訪れては聖書を語り、病人のために祈り続け、祈りによって癒していったといいます。しかし、彼は、高知に帰って間もなく、ある信者の家で持たれた家庭集会の後、倒れ、そのままその信者の方の家で動くことができなくなり、入院の準備をしていましたが、そのまま天に帰ったのです。暗誦していたヨハネ福音書を語りながら息を引き取りました。
この人が、熊本に帰っていたとき、長崎の私の祖父の家を訪ねてくれたそうです。そこに私の曾祖母が同居していましたが、70年近く熱心な浄土真宗の信者でした。ところが吉井先生が曾祖母に向かって、「おばあちゃん、神様は愛ですね」と言ったその❶一言で、彼女は浄土真宗を止め、クリスチャンになる決心をしたといいます。そのような圧倒的な神様の臨在に満たされた人でした。彼の追悼文集には、彼に一度しか会っていない人が何人も追悼文を寄せています。❷たった一度の出会いで人生が変わるほどの、神様の輝き、イエス様の香りに満ちた人だったのです。
彼は、結婚せず、ボロボロになっても❸自分の身体と心を愛する者たちのために差し出しました。彼は伝道しなかったら死ぬことはなかった。愛さなければ死ぬことはなかったのです。伝道し、愛する者を生かすため、イエス様に近づくことを求めました。清くあることを必死で求め、主の御霊だけによって生きることだけを求めた人生でした。私は、高校生の時、家にあった吉井先生の追悼文集を読んで強い衝撃を受けました。そして、いつか吉井先生のようにと思いながら高校生活を送り、大学生になりました。しかし、その思いはいつの間にか消えていました。
そして、このメッセージを準備しながら、会ったこともない吉井先生のことを思い出した。そして、自分は何か、とても大切なものを置き忘れてきたと思ったのです。
それは、自分は自分のものではないということです。聖書の言葉を語りながら生きていますから、そのことは頭や感情では分かっていました。しかし、頭や感情で分かっていることと、この❹実存が本当にそのように生きることとは全く違ったことです。本当に自分自身を自分のものとしてではなく生きてきたか。神様のものとして生きてきたか。
そんな私に、そして皆さんお一人お一人に、主が語っておられるのです「お前は、お前のものではない。お前は私のものだ。お前が愛する者たちも私のものだ。わたしがお前に託した者たちがいる。命を懸けてこれを愛せよ。そのために、清さを求めよ、聖霊に満たされることを求めよ」と。〜以上

 

http://kirisutonoheiwa.jp/message/誰のための人生

https://www.makuya.or.jp/247-hitowa/

 

私も吉井純男さんには、お会いしたことがありませんでしたが、ご親族にお会いした記憶があります。記憶に間違いがなければ、42年前にいつも天を見上げて証しする四国出身の吉井兄に京都でお会いしています。当時、肺病から癒されてキリスト教の文書伝道の仕事をされていましたが、いつもキラキラした目で地上から遠く天を見つめて微笑んでおられました。会えば天の香りがし、顔はいつも輝いていました。彼の天で生きる聖さに圧倒され、こんな不思議な方がいるんだと目を丸くして注視してしまいました。私は、学生でしたが、まるで映画に出てくる中世の聖フランシコに出会ったようなショックを受けたものです。同じ人間なのかと不思議に思っていました。聖なる人に❷一瞬出会っただけで、❶浄土真宗の岩本先生の曾祖母様がクリスチャンになる決心をしました。これは、どういうことなんでしょう?

説教や論破で人を変えるのではないのです。

これは、❷神とのencounter(接近遭遇)なのでしょう。その❶一言が人を変えてしまう力をもつ。これは、どういうことなのでしょう?

ルカ伝4章には、
32彼らはイエスの教えに驚嘆した.なぜなら、彼の❶言(ロゴス)には❺権威(ἐξουσίᾳ)が伴っていたからである。

36人々はみな驚いて、互いに言い合った、「この❶言(ロゴス)は何であろう? 彼が❺権威と❻力をもって汚れた霊どもに命じると、それらが出て行くとは」。(回復訳)とあります。

❺ἐξουσίᾳは、「権威、力、影響力」という意味が含まれます。権威、力、影響力のある❶ことば(ロゴス)とは、何なのでしょうか?

ヨハネ伝1章

1:1「初めに❶言(ロゴス)があった.❶言(ロゴス)は神と共にあった.❶言(ロゴス)は神であった。
1:2❶彼は初めに神と共にあった。

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1:14そして❶言(ロゴス)は❹肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた.わたしたちは❶彼の栄光を見た.それは、父からの❼ひとり子としての栄光であって、❽恵みと実際に満ちていた。
1:15ヨハネは彼について証しをし、叫んで言った、「『わたしの後に来られる方は、わたしよりまさっておられる.❶彼はわたしの前におられたからである』とわたしが言ったのは、❶この方である」。
1:16わたしたちはみな、❶彼の満ちあふれたものから、❽恵みの上にさらに恵みを受けた。
1:17律法はモーセを通して与えられたが、❽恵みと実際は❼イエス・キリストを通して来たからである。
1:18いまだかつて、神を見た者はいない.父の懐におられる❼ひとり子、❶この方だけが、❾父を明らかに示されたのである。(回復訳)

ヨハネ伝1章から、

※「❶ことば(ロゴス)=神=❼ひとり子(イエス・キリスト)としての栄光=❽恵みと実際=❾父の明示」がわかります。

当時、私はとても吉井兄弟の信仰の域には達せないと思ってあきらめていました。しかし、聖霊バプテスマを受けてから、そのような聖なる香りを放てるように変えられることは可能だと思いました。それは、私ではなく❼キリストが放つ香りなのだと。

その❼イエス・キリストは、❺権威、力、影響力のある❶ことば(ロゴス)であり、神の❼ひとり子としての栄光であり、❽恵みと実際であり、❾父を明らかに示す❹実存(肉体)となって、わたしたちの間に幕屋を張られた(臨在した)のです。

吉井純男兄弟はキラキラと輝く目で地上から遠く天を見つめて微笑み、その顔はいつも輝いていました。天の香りを放ち、天で生きる聖さに周囲が圧倒される。病人がいれば、癒しを行い、一言で人々を回心に導く。また、彼は2千年前の使徒たちのように無銭徒歩伝道をマクヤの群れで始めた方と聞きます。

その奇跡力の秘訣は、わたしたちの間に幕屋(臨在)を張られた❼イエス・キリストであります。栄化とは、キリストの❺権威、力、影響力のある❶ことば(ロゴス)であり、神の栄光であり、❽恵みと実際であり、❾父を明らかに示す❹実存(肉体)なのです。

自己弁護のために、わけのわからない偽りごとを並べる世の政治家とは、全く正反対の立場になります。否、そんな偽り者と比べてはいけません。Beyond、この世からはるかに超越した❺権威、力、影響力、❽恵みと実際に満ちた、❾父なる神の栄光(シェキナー)を表す❹実存(イエス・キリスト)を明らかに示す生き方が吉井兄弟の姿であり、栄化への秘訣だったのでしょう。

その❹実存である❼イエス・キリストと共に生きる姿は、神々しいばかりの➓光を放つのです。

ヨハネ伝1:4には、こうあります。
「❶彼の中に命があった.この命は人の➓光であった。」(回復訳)

❶キリストの中に命があり、その命が➓人の光として輝いています。

人が栄化に近づくと、➓光を放ちます。サンダー ・シングが暗闇で輝いているのを見た村人の証司がありました。

〜また、サンダーの親友のビンセント デビットは、一時期ヒマラヤ山中でサンダー・シングと静かな日々を送ったときのことを次のように回想していました。

「彼が、何時間にも及ぶ祈りから抜けだしてきたときには、いつも彼の顔の上に➓光があった。これが私に畏怖の気持ちを起こさせて、近づいていつもどおりに親しく振る舞っていいのかどうか、かなり戸惑いを感じたのである。」〜以上

栄化された方に出会うと、その➓光に戸惑います。そして、この人のようになりたい。この人と共にいたいと願うのです。

「❶ことば(ロゴス)=神=❼ひとり子(イエス・キリスト)としての栄光=❽恵みと実際=❾父の明示=命=人の➓光」がこの方の特性です。この方=主イエスに顔と顔を合わせて祈ると、その光を顔に映すのですね。

Ⅱコリント3:18

「しかし、わたしたちはみな、おおいのない顔をもって、鏡のように主の栄光を見つめつつ映しつつ、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと造り変えられていきますが、それはまさに霊なる主からです。」(回復訳)

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http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2016/06/14/081411