神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

❤️栄化への実践20 〜心耳を開く②

霊眼の次に、心耳を開き客観的に❶霊聴することについて学んできました。前回の続きを書きます。

〜敬愛する師の話より〜

❶霊聴は、他人の心理を推断したり、他者の心を想像したりしてみることではありません。

❷主観的に何やら心の中の霊の声を聞いたように感じてみることがありますが、それは、その人の心の幻想的産物でして、霊聴ということは、そんな不確かなことではありません。もっとはっきりした断言命法でして、突如として静かに細き声ながら、強く迫る力があり、一種異様な個性的なクセのある語法で語りかけられるのを覚えます。

おおむ返しに霊聴したことを話す場合に、語りし霊のクセなり、語調なりが、そのまま映し出されているもので、しかも、非常に❸確信と権威を何かしら荘重に帯びているのが感ぜられるものです。
それで、異言を釈き、又は予言をする人が、真実であるか、虚偽であるか、私は一見して、一聞して、わかります。色々とたわけたことを言う人がある。また、同じことばかり言う人がある。それは、神霊の語りかけではなく、本人自身の心の産物です。自分の思想的複製なのです。初心者は迷わされるでしょうが、まぁ疑わずとも、❹第一印象で直感的に真偽を判断して、無責任な放言には過信せぬように注意せねばなりません。

正しく霊的信仰を進め、先ず第一に集う人心に、聖霊バプテスマされる雰囲気が肝要であります。そうでないと、迷謬の霊に乗ぜられ翻弄され、やがては、その人が「虚偽の霊」の手先きとなって、暗躍させられます。

〜以上〜

❶霊聴は、❷主観的に何やら心の中の霊の声を聞いたように感じることではない。それは、その人の心の幻想的産物。霊聴ということは、もっとはっきりした断言命法で無条件に「~せよ」と命じる絶対的命法です。静かに細き声ながら強く迫る力があり、一種異様な個性的なクセのある語法で語りかけられるのを覚えると語っています。また、❸確信と権威と荘重さを帯びているのが感ぜられるものだと言っています。
予言する者が同じことばかり言ったりするのは、本人自身の心の産物です。自分の思想的複製です。初心者は、❹第一印象で直感的に真偽を判断して、無責任な放言は過信せぬようにと忠告しています。

 

〜続けて師の話より〜

アブラハムが99歳のとき、彼の前にエホバがありありと姿をとって、もう体で感じられるように立たれたのです。

遠いおぼろなものとは違います。見神の実際は病的な幻覚ではありません。

私は、あちこちの教友から苦しみの訴えの手紙をもらいますが、時にはその前に、もう先に見て知っておることがあります。それは、❻キリストが寝ても枕辺に立ち、目覚めては幻として実感できるほどに自分に近く来て下さって、語りかけ教えて下さるからです。

しからば、そのような神秘な状態にどうしたら立ち至れるか、これは誰もが聞きたいことです。

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❼神のリズムにすっかり共鳴すると、鮮明に魂に神の世界が映ってくるものです。それは送信波と同じ波長に受信機を調整せねば映らぬ、というテレビやラジオの原理と少しも変わりません。最近の物理学は、❼全宇宙がリズム〜波動のエネルギーで満ちている、と考えています。

禅宗では、呼吸を整えるということをします。❽息を下腹に吸い込んでしばらくためておき、それからゆっくり、❾へその真後ろにある神経叢に吸い上げるようにして、静かに静かに息をはく、この繰り返しをしている中に、元来呼吸とは律動的なものですから、その間に無我になる。これは瞑想する時のコツです。

神秘な状態とは、➓無我の状態、エクスタシー(法悦)の状態であります。

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キリストは言われるではないか、「子は父のなし給うことを見て行うほかは、自ら何事をも為し得ず‥‥」ヨハネ5:19〜と。キリストのような素晴らしい無意識もあります。

「私は空っぽであって、神の心が鏡にうつるように、父の心を私はあらわしているだけで、自分と言うものがない」と言われる時に、キリストは➓全くの無我の心境でした。無意識です。宗教とは、無意識の世界です。頭で考える間は真の宗教心ではありません。チッポケな人間の意識の底に深層意識という、❼宇宙大の神の意識につらなるものがある。頭の信仰から❽腹のどん底に信心がうつり始めると、驚くべき生涯を歩み出せます。〜以上〜

 

アブラハムが99歳のとき、彼の前にエホバがありありと姿をとって、もう体で感じられるように立たれた。アブラハムがハランを出た75歳の時、カナンで主が語りかけて以来の御声であり、99歳まで24年ぶりの主の御声だったわけです。アブラハムの受けた神の語りかけは、おぼろなものとは違い、実際的で、幻覚のようなものではありません。

師は、教友からの相談を受けますが、時にはその前に、もう先に見て知っていました。それは、❻キリストが寝ても枕辺に立ち、目覚めては幻として実感できるほどに師に近く来て下さって、語りかけ教えて下さるからでした。

❼神のリズムにすっかり共鳴すると、鮮明に魂に神の世界が映ってくる。それは送信波と同じ波長に受信機を調整せねば映らぬ。❼全宇宙がリズム〜波動のエネルギーで満ちている、と師は考えています。

呼吸を整えるということは、「❽息を下腹に吸い込んでしばらくためておき、それからゆっくり、❾へその真後ろにある神経叢に吸い上げるようにして、静かに静かに息をはく、この繰り返し」をしている中に、元来呼吸とは律動的なリズミカルなものですから、その間に無我になると語っています。これは禅の開祖 聖トマスもやっていた瞑想する時のコツで、無我の状態、エクスタシー(法悦)の状態を作ります。キリストも「子は父のなし給うことを見て行うほかは、自ら何事をも為し得ず‥‥」ヨハネ5:19〜と言い、キリストは全くの無我の心境で父の御心をなした。無意識の世界で、人間の意識の底に深層意識という、❼宇宙大の神の意識につらなり、❽腹のどん底に信心がうつり始めると、師のように霊眼、心耳が開かれ、驚くべき生涯を歩み出せると語っています。霊眼ではっきり見て、心耳ではっきりした主の御声を聴き、従いたいのです。

「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭11:5‬ ‭(新共同訳‬‬)

「イザヤの預言は、彼らによって実現した。 『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、 見るには見るが、決して認めない。 この民の心は鈍り、 耳は遠くなり、 目は閉じてしまった。 こうして、彼らは目で見ることなく、 耳で聞くことなく、 心で理解せず、悔い改めない。 わたしは彼らをいやさない。』 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭13:14-16‬ ‭ ‭(新共同訳‬‬)

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