神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

迫害が歓喜に!サンダー・シングの平和 SS29

サンダー   シングの迫害体験

チベットでは驚くべき人に出会った。彼は衣を脱いで、傷痕だらけの体を見せてくれた。彼は、キリストのためにこのように迫害されることを喜びと言って、次のような話をしてくれた。『わしは、ある人の殉教を目にしたことがきっかけで、霊的な事柄を考えるようになった。その人が、濡れたヤクの皮に体を巻かれたまま日に当てられるという拷問で死んだのだ。しかし、わしは、彼を見ていて、なぜこんなにも幸せでいられるのだろうかと思った。すると、悪霊が彼の中に住んでいるからだと、ラマが言った。それで、わしは答えた。悪霊にこんなすばらしいことができるのなら、むしろ悪霊をくれるよう神に祈ると。以来、そのことを考え始め、ついにキリスト教徒になった。殉教者の名はカータル・シングといった。この人は、拷問の最中でも驚くような喜びと平和に包まれていたので、拷問した側は、後でその平和の正体を確かめようと彼の胸をえぐり出したが、肉しか見なかった』」

サンダー  ・シング自身も、チベットで同様な拷問の刑に処せられた。それは、いちど投げ込まれたら二度と生きて出ては来れない深い井戸の刑である。地下12メートルの井戸に投げ込まれ、骨折して横たわった彼の周囲は、悪臭の立ち込める死肉の山だった。彼は三日目に超自然的力の介入によって奇跡の救出を受けた。その間のことを彼はこう述べる。「体の苦しみは大変なものだったが、霊において、私は幸せだった。私は神に祈り、神の歓喜が私のハートに流れ込み、満たしてくださったために、自分のおかれた忌まわしい環境を忘れてしまっていた。無上の平和が私の心を満たした。それは、言葉に表せないほど甘美なものであった。祈りを通して、キリストの平和の恵みを、この三日間ほど強く感じたことは無い。深井戸は、主の平和によって天界の門と化した。漆黒の闇の中、腐肉と骸骨と悪臭の中で、主の平和に浴することがいかにして可能であろうか。このような歓喜、このような平和は、この世の何物からも来ないのである。神のみがそれを与えることがおできになるのだ。この井戸の中で座っていた間、贅沢と安楽に満ちていた父の家にいた時にも、このこれほどの幸せは感じられなかったと思い返した。この地獄のような場所で、溢るるほどの歓喜はどこから来るのだろうか?私は、この時ほどはっきりと、イエスが生きておられることを感じたことはない。主が、私の心を平和と歓喜で満たしてくださったのである」

人が何不自由ない平穏無事な生活をしている時に平和を感じるのは当然である。また、多少とも辛い時に、自己暗示をかけて辛さを一時免れることもできよう。しかし、カータル・シングやサンダー・シングのように、拷問と死刑に直面したときに生まれる無上の平和は、人間を超えたところから来る。イエス・キリストが人類の罪のために残酷な十字架を背負い、それによって栄光の復活を遂げ、死の象徴であった十字架を生命の象徴に化えられたように、キリストのために負う重い十字架そのものが、負う人を栄光の中に復活させる力となるのである。「十字架は天国の鍵である。地にあっても、天にあっても、十字架より気高いものはない。十字架を通して、神は人類への愛をお示しになり。十字架がなければ、天の父の愛について何ものも知ることができない。この理由から、神はすべての子供たちに、この重く甘美な荷物を負うよう求められている。この方法を通してしか、神への愛も、人への神の愛も、目に見えるものとはならないからである。キリストに捧げられたサドゥーとしての長年の経験から、私は、十字架を負う者を逆に十字架が背負い、ついには天国へと携え挙げて栄光の贖い主の面前に連れて行ってくれると、確信を持って言える」〜参考:イエス・キリスト封印の聖書(徳間書店)

サンダー  の受けた迫害と苦難は、無上の歓喜であったと語っています。

天国での価値観は、この世とは違い、逆転しています。キリストにある災難は、キリストと共に十字架を負う体験であり、拷問と死刑に直面したときに生まれる無上の平和は、人間を超えたところから来ると書いてあります。

ピリピ2章

2:13

なぜなら、神の大いなる喜びのために、願わせ働かせるのは、あなたがたの内で活動する神だからです。
2:14

すべての事を、つぶやいたり議論したりすることなく行ないなさい.
2:15
それは、あなたがたが、曲がったよこしまな世代のただ中で、責められるところのない、たくらみのない、すなわち傷のない神の子供たちとなり、彼らの間で世にあって発光体のように輝き、
2:16
命の言を提供するためです.こうして、わたしが無駄に走ったのでも無駄に労苦したのでもないことを、キリストの日に、わたしのために誇ることができます。

2:17

しかしたとえ、あなたがたの信仰のいけにえと奉仕の上に、わたしが注ぎのささげ物として注がれるとしても、わたしは喜びます.またあなたがたすべてと共に喜びます。
2:18
同じように、あなたがたも喜びなさい.そしてわたしと共に喜びなさい。(回復訳)

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夏目漱石の書「私心を去り、天に従う」