神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

☝🏾われわれの信仰とは3 〜πίστις(ピスティス) の大小

信仰には、❶主イエスの開かれた救いへ至る信仰πίστις(ピスティス) と、救い主に依り頼み近接する❷個々の信仰πίστις(ピスティス) の二つがあることを話してきました。

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/01/13/111415

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2019/11/02/023100

ローマ3:22

全て信ずる(❷イエス・キリストに近づく)者に対して❶イエス・キリストからの信仰を通した  神のその義は、今、差別のないものです。(私訳)

われわれは、❶主イエスの信仰により開かれた神の義に乗っかって、やっと天国を垣間見れたわけですが、果たしてそれが救いのゴールなのでしょうか?パウロは、第一コリント9章で次のように語っています。

「24あなたがたは知らないのですか? 競技場で走る者はみな走りますが、賞を受けるのはただ一人です.あなたがたは賞を得るために、このように走りなさい。
25競争する者はみな、すべての事で節制します.彼らは朽ちる冠を受けるためにそうしますが、わたしたちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
26こういうわけで、わたしはこのように走ります.はっきりした目標のない走り方ではありません.このように拳闘します.空を打つような拳闘ではありません.

27わたしは自分の肉体を打ちたたき、それを自分の奴隷としています.それは、人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格することがないためです。」Ⅰコリント9:24-27(回復訳)

パウロでさえ、自分の肉体を打ちたたき目標に向け努力していると言っています。個々に任された責任があるようです。

同様に、個々の信仰も大小あると主イエスは言っています。

マタイ伝8章には、信仰の大小についての記事があります。

「8しかし、その百人隊長は答えて言った、「主よ、あなたをわたしの屋根の下にお入れするのに、わたしはふさわしくありません.ただ一言お言を下さい.そうすれば、わたしのしもべはいやされます。
9というのは、わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒たちがいるからです。そこで、わたしがこの者に『行け』と言えば、彼は行き、あの者に『来い』と言えば、彼は来ますし、わたしの奴隷に『これをせよ』と言えば、彼はそれを行なうのです」。
10イエスはこれを聞くと、驚いて、従っている者たちに言われた、「まことに、わたしはあなたがたに言う.イスラエルのうちのだれにも、わたしはこれほど❸大きな信仰を見たことがない

11しかし、わたしはあなたがたに言う.多くの者が東からも西からも来て、天の王国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に食卓に着く.

12しかし、❹王国の子たちは外の暗やみに放り出される。そこでは、泣き叫んだり歯がみしたりするであろう」。」マタイ8:8-12(回復訳)

8章12節 フットノート❹
王国の子たちとは、良い種である救われたユダヤ人のことです(13:38)。しかし狭い門を入り、細い道を歩く強い信仰がない者たちは(7:13―14)、王国の出現の時、宴席にあずかることができません(ルカ13:24―30)。

百人隊長(百卒長)は、中風の下僕のために主イエスに癒しを乞いに来ました。「わたしが行って、彼をいやしてあげよう」との主の申し出に、「ただ一言お言を下さい.そうすれば、わたしのしもべはいやされます。」と語り、主イエスが病いに対して権威のある方だと確信していました。
主は「イスラエルのうちのだれにも、これほど❸大きな信仰を見たことがない」と感心されました。百人隊長の主イエスに対する理解と癒しの力への確信は、「わざわざ家まで来なくても、一言だけ頂けるなら、治ります」という❸大きな信仰だったわけです。イエス・キリストの救いの力がどれだけ大きなものかを、権威というキーワードで理解し、主のピスティスに乗っかることができていたのです。

こんなイエスに信頼する信仰の大きな異邦人の百人隊長を見て、信仰の小さな「❹王国の子たちは外の暗やみに放り出されるぞ。泣き叫んだり歯がみしたりするであろうぞ」とまで、言わしめたのです。

次に、❺信仰の小さい者について、マタイ伝の同じ8章に記事があります。

「24すると見よ、大嵐が海に起こって、その舟は波に覆われた.ところが、イエスは眠っておられた。
25そこで、彼らは近づき、彼を起こして言った、「主よ、お救いください.わたしたちは滅びそうです!」
26イエスは彼らに言われた、「❺信仰の小さい者よ、なぜこわがるのか?」。そして立ち上がって、風と海をしかりつけられた.すると大なぎになった。」マタイ伝8:24-26(回復訳)

大嵐に、「主よ、お救いください.わたしたちは滅びそうです」とこわがった弟子たち。畏れなき信仰を持って嵐の中で眠っていた主イエスに弟子たちは泣きつきました。救い主と一緒に船に乗っているのに、主のピスティスを信用できずに沈没を畏れていた弟子たち。そんな弟子たちを「❺信仰の小さい者よ、なぜこわがるのか?」と叱ったのです。

8章からは、個々の信仰に大小があることがわかりますね。

イエスの信仰には、遠隔での中風の癒しや、自然界の大嵐を鎮める大奇跡力がありました。百人隊長のように、まだ見ぬ前から癒しを確信し、信仰の方程式を理解し、主のピスティスに乗っかることができた者には、「❸大きな信仰だ」と褒めていたのです。一方、弟子たちのように、イエスの近くにいながら、主のピスティスに乗っかることができず、畏れに満ちた者に対しては、信仰の小さいことを叱られるのです。

百人隊長(百卒長)の記事について、敬愛する師がこのように説明しています。

以下、師の話より〜

「こんな❸大きな信仰は神の民イスラエル人の中には見たことがない」と言われる時に、私たちも今年(1967年)の信仰標語として「信仰の量り(はかり)を拡大せよ」を掲げておりますが、それはただ「大きな野心を抱く」と言う意味だけではありません。野心や願いがあるならば、その願いを成就するためにはどんな秘密があるか。それをまずお考えください。命令一下、その願いをなす何かがあるということです。

わたしは、酒井軍司令官に助けられて、戦争中、北京に再び行き、莫大な資金を銀行から貸してもらって、仕事をやりだしたのです。もし酒井閣下にお会いしていなかったならば、わたしは事業に成功しませんでした。

戦争中です。特別な人の保護が、お蔭と言うものがなかったならば、どれほど自分の計画、青写真が良くても成功しません。権威の下にある人がわたしを支持してくださったからこそ、地上の成功がありました。

さらに、地上の権威を持つ者以上のものがあります。人間が生きるか死ぬかの差し迫った問題に、どんな地上の王侯に権威があるといってもどうにもなりません。しかし、人生の重大な瀬戸際に立たされた時に、一言のもとに解決してしまう不思議な力が、宇宙の中にあるということです。こういう力を信じ、これに頼って生きることを、「❸大きな信仰」とキリストは言われたのです。わたしたちは、つまらない人間でもよい。大事なことは、わたしたちがどのような人の御恩のもとで生きるかと言うことです。

わたしは自分の守護神がキリストであることを、本当に感謝します。宇宙の主権者である天地の創り主の霊が、わたしを保護しつつあるということは感激なんです!

「信仰の量りを拡大せよ」という時に、わたしたちは、どうしたら良いのか。まずはあなたが神の世界に、神の国にすっぽり入りこまねば、神のお蔭をこうむること、神の権威の下に生きるということができません。「まず神の国と義とを求めたならば、一切は与えられる」(マタイ伝6:33 )という世界がある。

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ここで中風の下僕がいつまでも同じ状態にあるだろうと諦めてしまえば、そのままです。しかし、人間の心は偉いものであって、神の霊を呼び覚まします。すると、たちまちに癒される。このような信仰を持っている者をイエスはほめられたが、百卒長は、ユダヤ教徒でもイエスの弟子でもない、異邦人で異教徒でした。しかし、神の民イスラエルの父祖となったアブラハム、イサク、ヤコブの列にも入ることのできる信仰だと言われた。これは第一級の信仰だと言う最大のほめ言葉です。

わたしたち原始福音を信じる者は、今のキリスト教に列しようとは思わない。キリストの十二使徒たちの列に加わり得る信仰を持つことが大事です。ペテロやヨハネヤコブパウロのような信仰だと言われれば、神様、それでもう充分ですね。そのような人の周りには、不思議が起こるものです。何となれば、神の霊が取り巻いているからです。

わたしたちは、こういう聖書の記事を読んで知らねばなりません。単なる人間でありながら、神の権威の下にある人間がいかに恵まれ、祝され、また人々を祝することができるかを。そして百卒長のような信仰者にならねばならない。それは何か難しいことではありません。

百卒長は、地上のイエスのみすぼらしい姿にもかかわらず、神の全権者、キリストの霊の偉大さを見抜き、その前にひざまずきました。「あなたはわたしの主です。一言だけで良いです。御言葉をください」と嘆願しました。わたしたちも自分の守護神であるところのキリストのもとにひざまずいて、お従いすることです。そのような信仰を確立した人は本当に違います。

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(❺信仰の小さい者についても、師は語っています。)

ここでキリストは「信仰の乏しいものよ」と言って、不信仰をお責めになったが、不信仰とは何か。危ない時に怖(お)じることであります。否、危なくなくともおじおじしている者には信仰はない。不信仰を現象的に言うならば何か。それは怖じる姿、恐れている姿であります。

もしわたしたちがクリスチャンと言いながら、怖じ恐れているならば、キリストが見られて同様に「なぜ、そのようにビクビクして生きているのか、❺不信仰者たち!」と言われると思います。どうか、他人ごととして聞きたくありません。

信仰が充実していたら、大胆に生きられます。ですから使徒行伝では「大胆に」とか「臆することなく」「はばかることなく」と言う言葉がたくさん使ってあります。わたしたちは聖霊に満たされるときに、ただスヤスヤと眠るだけではありません。大胆に生きられる、臆することなく生きられるということです。

〜以上、師の話より

「信仰とは2」で述べたヘブル11:6の私訳を再度見てみましょう。

信仰がなくては(近づかなくては)、神に喜ばれることはできません.というのは、神に進み出る(近づく)者は、神がおられることを信じ、彼を❻熱心に尋ね求める者たちに報いてくださる方であることを、信じるはずだからです。(私訳)

個々の信仰の大小は、どれだけ主を信頼して無畏心でおり、その権威に頼り、神の霊に取り巻かれて生きているかを問うているようです。神の世界に、神の国にすっぽり入り、主の権威のもとに、「一言だけで良いです。御言葉をください」と嘆願して事に臨むとき、直々に御言葉があれば、その通りになるのです。

聖霊降臨後のペテロやヨハネヤコブパウロのような信仰を標準として語る敬愛する師は、使徒と同じ奇跡力をご自分でも表していました。それは、わたしたちの信仰の標準でもあるのです。この第一級の信仰を❻熱心に尋ね求める者たちに主が報いてくださると確信し、このような信仰にわたしも与りたいのです。

 

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2020/06/21/025648

マタイ伝の信仰について

ὀλιγόπιστοι  6:30

τοσαύτην πίστιν 8:10

ὀλιγόπιστοι  8:26

μεγάλη πίστις·15:28

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