神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

異端呼ばわりする者の正当性?

 今のキリスト教界を見ますと、ネット上で「あの宗派はあぶないだとか、あそこは異端だ、カルトだ」とか、他宗派や教役者を批判する者がいるようです。しかし、異端審問さながらの大上段に構えた宗派批判を見ると、そんな批判をしている立派な?方の教会を調べてみたくなります。さぞや使徒行伝さながらの力ある御わざが表れ、癒しや死人の復活の奇跡が続出しているのだと思いましたが?カルチャースクールのようでした。

 わたしの経験から、「あそこは危ないから、関わらない方が良い」などと教役者が語り、他を批判したりするのは、概して自分の教会に力ある奇跡や聖霊の力ある御働きがないところで見られるということです。

 本当に力ある福音を現わす者は、あれこれ批判しません。自分の教会にはない力に恐れを抱き、中には、自分の都合の悪い話しを部下にさせたりする情けない輩もいるようです。多くは、不安からの異端審問の言動だと考えています。

 あそこは「あぶない」とか「異端だ」として怖がるのは、批判する者や自らの群れに力がない証拠だと思います。あそこには、自分にない熱さや力ある神のわざがある。だから怖がり心配するのです。他の群れが、まちがった教えだと思うなら、恐れずにその方たちのところへ乗り込んで真理を示して方向転換させるべきです。土俵の外からネットで異端審問する前に、行ってあなたの信仰する聖書にある神の力ある御わざを示せば良い。聖書にあるような奇跡を異端者の前で表せば良い。

 そのくらいの力ある御国の御わざをありありと示せないのでは、それこそご自身こそが異端ではないかと思います。自省されるべきであります。

 わたし自身は、幼い頃から日基の幼稚園へ通い、学生時代に米国南部バプテスト派の宣教師を介して受洗、大学時代は単立のホーリネス、20代には原始福音にもお世話になり、バプテスト派の母教会が移転してからは、今はペンテコステ派の教会へ通ったり、ボランティア関係などで韓国系教会、カトリックや他のプロテスタントにも関わり、セブンスデー・アドベンチスト、アッセンブリーにお邪魔したりもします。

 それぞれのエクレシアには、「この点が足りないとか、ここでがんばってほしい」とかいうことはあります。しかし、それぞれに「素晴らしい!なるほどなあ。ここは見習わないと」と思うことがたくさんあります。
 実際に足を運んで、何ヶ月かでもいいからその群れに参加していると、自分には真似ができないような、頭の下がる努力や熱心さがそれぞれにあるのです。

 わたしも、カトリックのエキュメニカル運動は、おかしいなあと思いますが、敬虔で真摯なカトリック信者たちと接して自分の不足を思い知らされますし、カトリック自体を批判したりはしません。マザー・テレサは天に召されましたが、マザー・テレサは一人でない。カトリックには、たくさんのマザーが同じように貧しく病んでいる人々のために奉仕を続けているのです。

 現代の「アレは異端だ、アレは危ない」と批判する者たちが、私生活でマザーと同じような奉仕をされているのでしょうか?カトリックの修道士に話しを聞いたことがあるのでしょうか?
 キリストの御わざを大胆に表わした敬愛する手島郁郎師も、既存のプロテスタント教会からは、異端視されることが多い存在でした。しかし、師は「神の国は、ことばではなく力にあるのです」(1コリント4:20)という御言葉を地で行く生き方をしていました。

 イエスに躓いたバプテスマのヨハネが「来るべき方はあなたですか?」と弟子を遣わしたとき、イエスは何と答えたか。教理を伝えたのか。宗派の教義を伝えたのでしょうか?

いいや、御国の福音の事実を見よと言ったのです。マタイ11:5では、「 盲人は見え、足なえは歩き、 らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている!」あなたの見たとおりだ!と言っています。これこそが主ご自身を証しされたときの回答です。バプテスマのヨハネに伝えたご自身の証しは、実際に起きている力ある奇跡と神の権威の現われそのものでした。
 
 実際に不思議な愛の奇跡を行う主イエスご自身も、その力あるわざのゆえにユダヤの祭司たちに疎まれ、十字架刑で殺されたのでした。
 もし、当時と同じようなことを、力ずくでないとしても、断罪しながら土俵の外であれこれ言うなら、異端裁判と同じではないでしょうか。そんなことをしている情けないやからこそ、主の御前には異端であるのでしょう。
 世の終わりには、すべてのキリスト教の異端と呼ばれる者たちも、「神の国の力ある顕現」を目の当たりにして、真のキリストの教えに気づき、立ち返ることでしょう。今は、確かに偽物をつかまされているかもしれない。しかし、本物が来れば、その絶大なる価値に「すべての財産をはたいて宝の隠された畑を買う」ように力ある御国の福音に戻ってくるのです。その群れ自体が、教理や余計なこだわりを捨て、御国の真の福音「力ある御国の顕現」に心酔し、神によろこばれる霊性に修正され、石でなく心に自由の律法を刻まれる。これこそがイエスの説かれた力ある御国の福音です。
 
 ことばではない。教義やドグマ(教理)でもない。現実に「神の国の力」を現せなければ、ことば遊びでしかない。「お前が見てる通りをヨハネに伝えろ!」とヨハネの弟子に言える。これが神の国の力ある福音です。
 この力ある御国の福音が体験「証し=証言」として、地の果てにまで、イスラム教、仏教、ヒンズー教、あらゆる宗教宗派、キリスト教の異端と呼ばれる群れの中にまで伝えられて、世の終わりが来るのです。
 あなたがこのような他の宗教・宗派に怖れを抱くなら、あなたは本物ではない。彼らをニセものだというなら、それに勝る圧倒的な神の力を体現して、どうどうと乗り込んでいけばいい。自分を救い主と言うような教祖の前で圧倒的な神の国の力を現し、御国の福音を示せばいい。エリヤのように天から火を呼び起こせばいい。
 われわれの周りで「盲人が見え、足萎えが歩き、らい病人がきよまり、耳しいが聞こえ、死人が生き返り、貧しい人々が福音を聞かされている」のでなければ、われわれはまだ主イエスのレベルの御国の福音に達していないのです。小さな教義やドグマにこだわり、口先だけの教えで、他を批判しているなら、それこそエリヤに敵対した異端者やイエスを十字架につけた祭司たちと同じです。

 バプテスマのヨハネイエスが答えたこの「御国の福音」のレベルでなければ本物ではないのです。「盲人が見え....死人が甦る」御国の福音こそが、本物の福音と異端(偽物)を見分ける主イエスの回答なのです。
 議論やことば遊びではない。「神の国はことばではなく力にあり」。聖霊を受けて御国の力と天の「啓示」が与えられれば、この世の「教理」などは吹っ飛んでしまいます。天国を垣間見れば、すべてこの目で真実を見ることができるのです。

 「 しかし、聖霊があなたがたの上に降るとき、あなたがたは力を受けて、エルサレムと全ユダヤサマリア、また地の果てに至るまで、わたしの❶証人となるであろう」。使徒行伝1:8(原文校訂口語訳)
❶証人とは、事実を証明する人。自己が経験により認識・知覚した事実を述べる人のことです。

 われわれは、異教徒、異端とよばれる群れをも「御国の福音」へ引き戻し、引き上げていく「力ある」神の国の体現者、事実を証明する者となるべきです。そんな福音の証人になれないで、他を批判して、十字軍さながらに正義をかざし殺戮をする者たちに何の正当性があるのでしょうか。

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